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毎日散歩

本と映画と音楽と、ときどき珈琲

デヴィッド・ロバート・ミッチェルの世界

デビッド・ロバート・ミッチェルの2010年の作品『アメリカン・スリープ・オーバー』は、デトロイト郊外の町の公営プールのシーンから始まる。水着姿の短髪の娘がプールサイドを歩き、キャンデーをなめている娘のとなりにすわる。二人ともまだあどけなさを残している。短髪の娘が尋ねる。「どんな夏だった?」。キャンディーの娘が応える。「去年と同じよ」。短髪の娘はプールの監視員の青年が気になっている。

夏の終わり、新学期(新学年)が始まるのは間近。どこかやり残したような、物足りないような、倦怠感に似た空気が流れている。

スーパーでカートを押す男女がすれ違い、恋が芽生えるかと思わせるが、テンポの速いラブコメのようにはいかず、少女があっさり、店を出て行ってしまい、少年は記憶だけをたよりに彼女をずっとさがすはめに。また、ハイスクールではモテモテだったのに、大学に進学してなんだか思うようにいかなくなった男が、母校の掲示板にプロムのときの自分の写真を発見している。彼を憧れのまなざしで見つめている双子がそこには写っている。

その日は新学年を目前にして、最後の夏休みを楽しむためのお泊り会が各所で行われている。少女たちは枕を持って、友達の家に行き、少年たちはホラー映画の鑑賞会を行い、大学生はその双子たちが進学する大学で行われている新入生のお泊り会へ出かけていく。映画は彼らの一夜をじっくりと描いていく。

冒頭の少女たちはお泊り会を抜け出して、プールの監視員の青年たちのパーティーに合流する。互いにはにかみながら、「ハイ、プールガール」「ハイ、プールボーイ」と声を掛け合うのがいい。この少し年上の青年が短髪の娘と交わす言葉はこの映画のキーともいうべきものだろう。

「大人へと急ぐと二度と取り返せない」

『アメリカン・スリープ・オーバー』はディヴィッド・ロバート・ミッチェル監督からの若い世代へのメッセージが込められている。「どうしてそんなに急いで大人になろうとするの?」という問いかけとともに、子ども時代のかけがえのない時期に、当人たちがその重要性に気付いてないことへの憂いも秘められているだろう。人は長い時代にわたってそれを繰り返してきたのだ。失ってしまった少年少女時代への羨望の眼差しとそのはかなさが画面に深く刻まれている。

この『アメリカン・スリープ・オーバー』を観ると、ミッチェル監督の最新作『イット・フォローズ』の観方も変わってくるだろう。『イット・フォローズ』は、ワンシーンワンカットの冒頭の長回しから衝撃的なホラー映画だが、明らかに『アメリカン・スリープ・オーバー』と地続きの青春映画なのだ。

舞台がどちらもデトロイト郊外、プールが重要なシーンに使われる(青春映画には夜間のプールは重要な場所だ)、高校の名前など共通点も多い。

セックスすることによって感染させられた者に得体の知れないもの(イット)がひたすら追ってくるというシチュエーションは非常に恐ろしく、大人の恋に憧れた少女が、好きな男性と結ばれた結果がこれ、というのはあまりにも酷である。まるで早く大人になることを急いだ罰のようにも見える。

彼女の妹や友人たちが懸命に彼女を救おうとするのが救いであり、彼らの奮闘ぶりが胸を打つ。プールで「イット」と対決をするため、彼らは車を走らせる。幼いころ大人たちに越えてはならないと言われていた境界線、都市と郊外の境界線実態が窓のむこうを通り過ぎていく。その風景の存在はまさに子供時代の終焉を意味しているだろう。

ラストシーンで、幼馴染の少年少女が手をつないで不安げに歩道を歩いている。その姿のなんと愛らしいことか。なんと素敵なカップルなのか。理想的なティーンエイジャーのカップルのように見える。それは一種のアイロニーなのか、それとも、厳しい社会に船出していく大人として負けるなというメッセージが込められているのか、はたまたこちらの深読みにすぎないのか。ただ、私は二人の美しさに息をのんだ。それだけは確かだ。