映画とご飯

映画と外食。

ツィゴイネルワイゼン覚書

内田百閒の「サラサーテの盤」が原案になっているが、この短い物語の大部分は、映画の後半に集約され、前半は、原田芳雄扮する中砂という「鬼」の行状を描いている。

冒頭、蓄音機にのせられたサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」の円盤が映しだされ、曲の間にはいる声についての会話が交わされたあと、藤田敏也扮する青地が列車に乗っているシーンとなる。彼が顔をあげると、目のみえない三人連れが盛んに飯を食っているのが見える(この三人はその後も何度か現れ、三人の人間関係が変わっていく様が面白い)。

藤田が灯台のような建物を背後に海岸近くのがけっぷちを降りていくシーンに移ると「仏があがったぞー」という叫び声が聞こえて、背中を向けた数人の男たちが右にわずかずつ横移動する不思議なカットとなる。カメラが右にパンしていくと焼きとうもろこしを食べている原田の姿が見えて来て、原田のバストショットが二度ほど重ねられる。男たちが彼を挟んで再び右へと奇妙な横移動をする。原田はその場を脱出すると今度はいきなり男たちを背負投げしている。

なんだか妙に人をくったような編集で、ユーモラスでさえあるが、砂浜に打ち上げられた女の死体が映しだされると、今度は女の股からアニメーションの蟹が出てくる。そうか、この男たちの奇妙な横移動は蟹の移動を表していたのか! と妙に納得してしまう。

藤田は自分と原田の身分を語り、女を殺したのではないかと疑う警官を納得させ、彼を解放させる。原田は女にお前は必要ないと言うと勝手に身を投げたのだとわるびれなく言う。二人は一緒に宿を取りばかでかい鰻の蒲焼きを食する。芸者が一人やってくる。弟が死んだばかりで焼いた骨がうっすらとピンク色をしていたのだと語る。演じるは大谷直子だが、ここでは至極まっとうな生気のある人間として描かれている。

鎌倉に戻った彼らは互いの家を何度か行ったり来たりする。そのたびに釈迦堂の切り通しをくぐることになる。原田が結婚したというので尋ねて行くと細君は旅の芸者とそっくりの女であった。間口の狭い玄関からおいでおいでをしている様子がぞっとさせる。ここでの大谷はなにか得体のしれなさ、不確かさを放っていて不気味である。

細君は小さな女の子をもうけたあと死んでしまい、芸者が後妻におさまる。この女たちを原田は決して大切にしないようで女たちはどんどん生気を失っていく。しかも、藤田の妻とも関係があるという疑いまで出てくる。が、妻はむしろ逆に活き活きとしてくるのである。

原田が死ぬ。未亡人が夜な夜な藤田の家を訪れて(これが洋館の実に雰囲気のある家である。純和風の原田家と比較して楽しめる)、原田が貸していたものを返してほしいとやってくるという原作に忠実な展開になってくるが、この時の大谷の暗がりの中、見返り美人をしているような姿が実に怪しげなのだ。前妻も後妻も、本当に生きている人間なのか。さらに、病院で療養している藤田の妹が語った話は真実なのか、夢なのか、映画はどんどんと迷宮に突入していき、まるでお化け屋敷のようなラストへと向かっていく。サラサーテツィゴイネルワイゼンの例の声と藤田の声が重なって何を言っているかわからない場面は秀逸だ。

夢かうつつか、幻か、

生きている人が死んでいて、死んでいる人が生きているのか、

切り通しはあの世とこの世をつなぐトンネルのようなものなのか、

きみちゃんは幼稚園に行っております。と杉戸絵の書かれた戸をぴしゃりと締め、姿を隠して泣いている女に真底ぞっとした。

ラストは実にわかりやすい。怨念もなにもなくただ楽しく怪談を撮ったという旨の清順の言葉にも納得。