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[映画]やさしい女(ブレッソン)

ロベール・ブレッソンの『やさしい女』をシネヌーヴォで観る。昨年、あちこちで上映されていたのをことごとく見逃してしまったので、この上映は本当にありがたい。

映画は、60年代末のパリの夜の風景を映しだして始まる。カフェやホテルのネオンが明滅し、車が進んでいく様子をとらえながら、クレジットが表示されていく。車が止まって大勢の人々が横断歩道を渡っていく様子が見えるが、人々が影になっていて、黒い固まりのようだ。その固まりの流れが止まるとまた車が動き出す。

と、次に来る画面はドアの持ち手に焦点が当てられており意表をつく。持ち手がひねられて人が中に入ると、ベランダにの今倒れたばかりにみえる机と椅子に画面が変わり、次いでゆっくりとショールが空中を落下していくショットとなる。車がけたたましく止まり、道路に横たわっている女の姿が映り、救急車の音が聞こえてくる。ショッキングで鮮やかなオープニングだ。

ここからは死んだ女の夫である回想という形をとる。質屋を営んでいる若い男は店にやってくる緑色のコートを着た貧しい女に惹かれていく。女はドミニク・サンダ。当時17才。揺るぎない真っ直ぐな瞳が美しい。

彼女はいつも手に分厚い本を持っている。何度目かに二人は言葉を交わし、女は「ここで得たお金は本とノートに使うの」と語る。男は彼女に恋し、結婚を申し込む。彼女は結婚に対し何の幻想もいだいていないように見え、一旦は拒絶するが結局二人は結婚する。簡単な結婚式のあと二人は男の自宅に戻ってくるのだが、ドミニク・サンダは階段を駆け上がり、家にはいるとすぐにバスルームに飛び込み、部屋に戻ってくるとテレビをつけ(カーレースをやっている)、軽やかに走り回る。ベッドの上で子どものように何度もジャンプし、夫と抱き合う。このはしゃぎっぷり、高揚感に溢れる描写には観ていて思わずてれくさくなるような多幸感がある。

しかし、「彼女の上機嫌を私が壊した」と男が告白するように、以後、女は笑うことすらなくなってしまい夫婦の溝がどんどん深まっていく。「激しい言い合い」があったと男は言うが、映画では再現されず、女は沈黙し、男に視線を合わさなくなる。

男がとる態度はある意味普遍的であり、とりわけ男性的な横暴さに溢れるわけではない。反省し愛していると告白し、とりすがりもするが、女は決して男をみようともしない。男は愛をやり直そうとここではないどこかへの想いを口にするが、それもまた彼女を追い詰めるだけであった。

食事や身の回りのものよりも本とノート、映画と演劇と音楽を愛した女。蓄えよりも優しさを重視した女。だがそんな価値観の相違といった単純なものが原因なのではない。もっと深いところで二人は激しくすれ違ってしまったのだ。

彼らはパラマウント・エリゼ座、動物園、自然史博物館、近代美術館、ハムレットの芝居などに出かけていく。「自然史博物館知ってる? 感動するわよ」と男に言った女。近代美術館で機械仕掛け現代美術作品の前にたたずみ「絵画と同じよ」と言った女。「ハムレット」の芝居を身を乗り出してみた女。

おそらく結婚生活とは芸術の墓場なのだろう。