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氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)


ある男(「私」)が人里離れた場所で道に迷い、車のガソリンも底をつき、やっと給油所をみつけるという場面から物語は始まる。それだけでも心細いのに、恐ろしい厳寒期が訪れているという町で雹に振られ、ほどなく雪となり、路面は凍り、何度もスリップする。私はある任務から戻って、かって結婚したいと思っていた少女のもとを訪ねようとしている。幼い頃から母親に虐待され、臆病で脆弱で常に「怯えた従属者」として成長した少女を冷酷な世界から救おうとした私だったが、少女はある日突然私を捨て、別の男と結婚したのだという。
この冒頭はある意味正統派のヒーローと、弱者としてのヒロインの関係を想起させ、ヒーローがヒロインを救う物語なのだ、と多くの読者が想像するだろう。しかし、物語は徐々に予想を超える展開に進んで行く。その場面が過去なのか現在なのか、ただの妄想なのか、現実なのか、読み手は混乱していく。本来なら一行あけるなりされるべきセンテンスが前後の関係なくふいに現れ、まるで時空を駆け抜けるように、謎を残しながらどんどんと語られていくのである。

迫り来る氷河の記述は圧巻である。

頭上では虹色の冷たい焰が脈動し、それを貫いて、四囲にそそりたつ堅固な氷の峰々から放射される何本もの純粋な白熱光のシャフトが閃き走っている。それよりも近く、家を囲む氷の鞘にくるまれた樹々は、めまぐるしく変容する上空の鮮烈な火の滝を映し、超自然的なきらめくプリズムの宝石を滴らせている。見慣れた夜空の代わりに、オーロラが形作る、燃え立ち揺れ動く強烈な寒気と色彩の天蓋。そのもとで、大地はそこに住むものともども、眼のくらむ輝きを放つ、通り抜けることのできない氷の断崖に捉えられている。世界は逃亡の不可能な酷寒の牢獄と化し、あらゆる生き物は、この樹々同様、まばゆい死の光輝を放つ壁の内側で、すでに生命なき存在となっている。

 確実に氷に侵食されていく世界と、情報を隠蔽された人々が国家間で狂ったように戦争を続けていく描写とともに、少女が苛まれていく姿が何度も描かれる。少女をさいなんでいるのは誰なのか。少女が結婚した相手の男なのか、彼女をさらった提督なのか、そして「私」なのか。少女の死を暗示する場面が何度も登場する。いつしか「私」がヒーローであるという考えは消え、「私」自身が彼女を苛んでいる一人であることを読み手は確信していく。しかし、その「私」と「提督」との関係も、甚だ不可解でもしやこれは「分身もの」の一つなのかもしれないと深読みしたくなる。
少女は暴力を喚起してしまう。この作品においてそれだけは間違いない事実のように思われる。弱さというものに人は怒りを覚える生き物らしい。おそらく、自分を照らす鏡だからだ。
氷河が世界を飲み込んでいく中、私は少女を追い続ける。これは複雑なラブストーリーでもある。最初から最後までこちらの想像を超えたところに物語はつっぱしっていくのである。