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毎日散歩

本と映画と音楽と、ときどき珈琲

無月物語

久生十蘭の『無月物語』(教養文庫)から「湖畔」と「無月物語」を読む。

北村薫は『ミステリは万華鏡』(角川文庫)の中で「湖畔」を取り上げている。主人公が、死んだはずの妻に会い、狂喜して林の奥の小屋で、愛の生活に入るという展開について、「問題なのは、それが現実に起こったことなのか、主人公の夢想なのか、ということである。これは問題なく後者だろう」といい、その根拠を上げている。そして、文章の一部を引用したあとに「ここで、《ああ、じゃあ生きていたんだ》と読む人がいるらしいのである。以下、延々と続くのは、生きている陶との、現実の生活だと」と書いている。

実を言うと、私など、まさにそのように解釈した一人である。そんなふうに思ってしまうのは、やっぱりどこかでこのひどく不幸な人たちが救われてほしいっていう思いがあるからなのだろう。しかし、北村氏は的確にこれが主人公の夢想であることを証明していく。高木を殺したのも主人公であろうと。しかし、冒頭に思いをはせると、彼は自分が犯した二度目の犯罪について「これは普通に秩序罪と言われるもので」と独白しているので、やはり高木を殺してはいないのではないか、と再び、「実は生きていた」説に傾いてしまう。勿論、高木は夢想に囚われているのでそのように記しているのかもしれないが。

しかし、続いて表題作の「無月物語」を読むと、私のこのような考えが「甘い」としか思えなくなる。これは恐ろしい、実に救いのない、冷酷な、氷よりも冷え冷えとした、これ以上の不幸はない、震撼する物語である。ここまで無情な小説を私は読んだことがない。これを読んでしまうと、「湖畔」はやはりそんなロマンチックな愛の物語ではないのだ、という結論にいたってしまう。

それにしても、これほど残酷な物語なのに、嫌悪感が襲ってこないのは何故なのか。物語が、一種の地獄図のようにある種の「美」へと昇華していると解釈して良いのだろうか!?