映画とご飯

映画と外食。

サミュエル・フラーを観る

サミュエル・フラーといえば、学生時代にロードショーで『最前線物語』を観たのみ、あとは『気狂いピエロ』に登場したのを記憶しているくらいだ。自分の中でその名前だけがどんどん大きくなっていくのに、観る機会がなかなかなかった。

今回、boidから『サミュエル・フラー自伝』が刊行されたのを記念して「サミュエル・フラー連続上映」が催された。しっかり情報を把握していなかったため『ベートヴェン通りの死んだ鳩』は既に上映が終わっていて見逃してしまったのだが、あとの三作品『ショック集団』『裸のキッス』『チャイナ・ゲイト』は無事観ることができた。サミュエル・フラーほぼ初体験というところだが、三作品とも思った以上の傑作揃いですっかりうなってしまった。

ショック集団』は主人公が女の集団に襲われるシーンがまず見せ場の一つなんだけど、映像のショッキングさもさることながら、様々な音が同時にかぶさることで混乱に拍車がかけられる。女が歌っているのが「a cup of tea」といった爽やかな曲なのも面白い。精神病院が舞台なのだが、食事シーンで乱闘が起こるところは刑務所ものと同じだな。メインになる場所が、画面奥へと続く廊下なのだけれど、ここが嵐で水浸しになるという妄想シーンがやはり最大の見せ場だろう。ただ、この映画でもっとも恐ろしいのは、院内に潜入捜査をして殺人事件を解決しようとする記者の恋人(コンスタンス・タワーズ)が、危険な手段だから中止せよとあれほど懸命に訴えたのに、誰一人それに耳を貸さないことだろう。彼女は言う。「こんな狂った計画なのにみんな平然としている」。映画自体、ただの娯楽映画というよりは、ベトナム戦争公民権運動など、様々な当時の時代背景を折り込み、社会派的な要素を秘めている。この恋人の言葉は当時のアメリカ社会への警告ともとれるだろう(そしてそれは今の時代にもつながる)。

『裸のキッス』。女がハンドバッグ(?)を何度も振り下ろす場面からいきなり始まる。殴られているのは彼女たちを搾取する男。女はスキンヘッド。その後、女の顔の正面のアップ。かつらを被ってヘアメイクし、満足気に微笑む。タイトル。こんな激しくかつ洒落たオープニングみたことない。『ショック集団』にも出演していたコンスタンス・タワーズが圧倒的な存在感を見せる。「活動的な無知よりこわいものはなし(ゲーテ)」など理知的な会話が交わされ、途中流れるヴェニスの風景を撮った8ミリ映画も魅力的だ。

まっすぐに正義を貫く彼女の姿は凛々しく、彼女の窮地に、最初は腰がひけていた人々も勇気を持って行動を起こし始める。結構おぞましいモチーフが満載なのに、非常にすっきりするというか、清々しい後味がある。女はバスでやって来てバスで去っていく。それを少し俯瞰で撮っている。

『チャイナ・ゲイト』これもまた素晴らしい。1954年の第一次インドシナ戦争を背景にしている。光るナイフ。子犬を抱えた小さな子供が危険を感じて逃げる。食料もつき、極限状態の中、アメリカからの支援物資だけが頼り。

アメリカ軍の飛行機が落とす物資に向かって走っていく人々。これはニュースフィルムなのか、実写なのか。少年は皆が走っていくのと逆方向に走って行く。彼は自分の家に戻ってきたのだ。部屋には妖艶な白人女性がいる。少年の母親リーア(アンジー・ディキンソン)だ。アジア系の少年と母親は全く似ていないのだが、母親の家系には中国系の血が流れているのだという。しかしそのことを理解しない夫は生まれた子の顔を見て怒って二人を見捨てて出て行ってしまったらしい。そんな元夫婦が再会し、ある使命を持ってともに行動することになり、映画はその過程を追っていく。アクションシーンの迫力とともに、夫婦間の反発や愛情、家族の絆が熱く描かれていく。黒人兵士がかっこ良くて、その精悍な顔つきも印象に残ったのだが、なんと、演じていたのはナット・キング・コールらしい! 

題材としては政治的にかなりデリケートな背景を扱っていることもあり、様々なイデオロギーレッテルを貼られもしたらしいが、実に骨太な戦争映画、あるいは人間ドラマとして非常に成功していると思う。ここでもヒロイン、アンジー・ディキンソンが圧巻である。

ツィゴイネルワイゼン覚書

内田百閒の「サラサーテの盤」が原案になっているが、この短い物語の大部分は、映画の後半に集約され、前半は、原田芳雄扮する中砂という「鬼」の行状を描いている。

冒頭、蓄音機にのせられたサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」の円盤が映しだされ、曲の間にはいる声についての会話が交わされたあと、藤田敏也扮する青地が列車に乗っているシーンとなる。彼が顔をあげると、目のみえない三人連れが盛んに飯を食っているのが見える(この三人はその後も何度か現れ、三人の人間関係が変わっていく様が面白い)。

藤田が灯台のような建物を背後に海岸近くのがけっぷちを降りていくシーンに移ると「仏があがったぞー」という叫び声が聞こえて、背中を向けた数人の男たちが右にわずかずつ横移動する不思議なカットとなる。カメラが右にパンしていくと焼きとうもろこしを食べている原田の姿が見えて来て、原田のバストショットが二度ほど重ねられる。男たちが彼を挟んで再び右へと奇妙な横移動をする。原田はその場を脱出すると今度はいきなり男たちを背負投げしている。

なんだか妙に人をくったような編集で、ユーモラスでさえあるが、砂浜に打ち上げられた女の死体が映しだされると、今度は女の股からアニメーションの蟹が出てくる。そうか、この男たちの奇妙な横移動は蟹の移動を表していたのか! と妙に納得してしまう。

藤田は自分と原田の身分を語り、女を殺したのではないかと疑う警官を納得させ、彼を解放させる。原田は女にお前は必要ないと言うと勝手に身を投げたのだとわるびれなく言う。二人は一緒に宿を取りばかでかい鰻の蒲焼きを食する。芸者が一人やってくる。弟が死んだばかりで焼いた骨がうっすらとピンク色をしていたのだと語る。演じるは大谷直子だが、ここでは至極まっとうな生気のある人間として描かれている。

鎌倉に戻った彼らは互いの家を何度か行ったり来たりする。そのたびに釈迦堂の切り通しをくぐることになる。原田が結婚したというので尋ねて行くと細君は旅の芸者とそっくりの女であった。間口の狭い玄関からおいでおいでをしている様子がぞっとさせる。ここでの大谷はなにか得体のしれなさ、不確かさを放っていて不気味である。

細君は小さな女の子をもうけたあと死んでしまい、芸者が後妻におさまる。この女たちを原田は決して大切にしないようで女たちはどんどん生気を失っていく。しかも、藤田の妻とも関係があるという疑いまで出てくる。が、妻はむしろ逆に活き活きとしてくるのである。

原田が死ぬ。未亡人が夜な夜な藤田の家を訪れて(これが洋館の実に雰囲気のある家である。純和風の原田家と比較して楽しめる)、原田が貸していたものを返してほしいとやってくるという原作に忠実な展開になってくるが、この時の大谷の暗がりの中、見返り美人をしているような姿が実に怪しげなのだ。前妻も後妻も、本当に生きている人間なのか。さらに、病院で療養している藤田の妹が語った話は真実なのか、夢なのか、映画はどんどんと迷宮に突入していき、まるでお化け屋敷のようなラストへと向かっていく。サラサーテツィゴイネルワイゼンの例の声と藤田の声が重なって何を言っているかわからない場面は秀逸だ。

夢かうつつか、幻か、

生きている人が死んでいて、死んでいる人が生きているのか、

切り通しはあの世とこの世をつなぐトンネルのようなものなのか、

きみちゃんは幼稚園に行っております。と杉戸絵の書かれた戸をぴしゃりと締め、姿を隠して泣いている女に真底ぞっとした。

ラストは実にわかりやすい。怨念もなにもなくただ楽しく怪談を撮ったという旨の清順の言葉にも納得。

[映画]アイリス・アプフェル! 94歳のニューヨーカー

映画の冒頭、自身の独特な服装を解説してくれるアイリス・アプフェル。自分がデザインしたというスニーカーは、カラフルな鳥のイラストがはいっていて、欲しい!とまず思ってしまった。

アイリス・アプフェルは、類まれなるファッションセンスと集めに集めた貴重なコレクションの数々で、80才を過ぎてから見出されたファッションアイコンだ。時にはデザイナーであったり、ファッションアドバイザーであったり、ファッションモデルだったり。まさに好きなものがそのまま仕事になってしまったという典型の人。若いころは、古いデザインの壁紙を好む人たちのために夫とともに世界中を飛び回り、ホワイトハウスの内装の仕事もしていたらしい。夫が「トルーマンのころ」と言い、またケネディ夫人であるジャクリーンの話もでてくるので、40年代~60年代くらいのかなり長い間、従事していたスペシャリストだったのだろうか。

ファッションや美へのたゆまぬ追求というか、そうせずにはいられない好奇心というのか、ともかく好きなことに夢中になっている人っていうのは観ていて本当に楽しい気分になってくる。

雑貨屋やブティックなどで嬉々としている様子や、ファッションショーでモデルをみつめる生き生きした表情など、アイリス・アプフェルの魅力が存分に映しだされている。

94歳にして今なお溌剌としているアイリス・アプフェルだけれど、高齢者の抱える不安、子どもをつくらなかったことなども言及されている。子どもを作らなかったことの理由をきかれ「全てを手に入れるのは無理だとわかっていたから」と応えている。私はここで,ニューヨークのファッションフォトグラファー、ビル・カニンガムのことを少し思い出した。ドキュメンタリー映画ビル・カニンガム&ニューヨーク』で恋人はいたかと聞かれ「いない」と答えていた彼。彼らほどの才能に恵まれていても人間は全てのことを手に入れられない「あきらめることも必要なのよ」とアイリス・アプフェルはいう。

そしてこれほどのコレクターでもあるアイリスが「人は何も所有できない」と語るのも示唆的だ。映画終盤、彼女の思い出がたっぷりあるコレクションの品々が売るために運びだされていくシーンがある。勿論金銭的なこともあるだろうけれど、それは次の世代へ譲り渡すということでもある。彼女は大勢の仲間とともに、若い大学生が業界(社会)で生きていくための実利的な講座も開いている。講師の一人の「あらゆることからヒントを得るのだ!」という言葉がまっすぐに響いてきた。それはアイリス・アプフェルの生き方そのものだ!

[映画]やさしい女(ブレッソン)

ロベール・ブレッソンの『やさしい女』をシネヌーヴォで観る。昨年、あちこちで上映されていたのをことごとく見逃してしまったので、この上映は本当にありがたい。

映画は、60年代末のパリの夜の風景を映しだして始まる。カフェやホテルのネオンが明滅し、車が進んでいく様子をとらえながら、クレジットが表示されていく。車が止まって大勢の人々が横断歩道を渡っていく様子が見えるが、人々が影になっていて、黒い固まりのようだ。その固まりの流れが止まるとまた車が動き出す。

と、次に来る画面はドアの持ち手に焦点が当てられており意表をつく。持ち手がひねられて人が中に入ると、ベランダにの今倒れたばかりにみえる机と椅子に画面が変わり、次いでゆっくりとショールが空中を落下していくショットとなる。車がけたたましく止まり、道路に横たわっている女の姿が映り、救急車の音が聞こえてくる。ショッキングで鮮やかなオープニングだ。

ここからは死んだ女の夫である回想という形をとる。質屋を営んでいる若い男は店にやってくる緑色のコートを着た貧しい女に惹かれていく。女はドミニク・サンダ。当時17才。揺るぎない真っ直ぐな瞳が美しい。

彼女はいつも手に分厚い本を持っている。何度目かに二人は言葉を交わし、女は「ここで得たお金は本とノートに使うの」と語る。男は彼女に恋し、結婚を申し込む。彼女は結婚に対し何の幻想もいだいていないように見え、一旦は拒絶するが結局二人は結婚する。簡単な結婚式のあと二人は男の自宅に戻ってくるのだが、ドミニク・サンダは階段を駆け上がり、家にはいるとすぐにバスルームに飛び込み、部屋に戻ってくるとテレビをつけ(カーレースをやっている)、軽やかに走り回る。ベッドの上で子どものように何度もジャンプし、夫と抱き合う。このはしゃぎっぷり、高揚感に溢れる描写には観ていて思わずてれくさくなるような多幸感がある。

しかし、「彼女の上機嫌を私が壊した」と男が告白するように、以後、女は笑うことすらなくなってしまい夫婦の溝がどんどん深まっていく。「激しい言い合い」があったと男は言うが、映画では再現されず、女は沈黙し、男に視線を合わさなくなる。

男がとる態度はある意味普遍的であり、とりわけ男性的な横暴さに溢れるわけではない。反省し愛していると告白し、とりすがりもするが、女は決して男をみようともしない。男は愛をやり直そうとここではないどこかへの想いを口にするが、それもまた彼女を追い詰めるだけであった。

食事や身の回りのものよりも本とノート、映画と演劇と音楽を愛した女。蓄えよりも優しさを重視した女。だがそんな価値観の相違といった単純なものが原因なのではない。もっと深いところで二人は激しくすれ違ってしまったのだ。

彼らはパラマウント・エリゼ座、動物園、自然史博物館、近代美術館、ハムレットの芝居などに出かけていく。「自然史博物館知ってる? 感動するわよ」と男に言った女。近代美術館で機械仕掛け現代美術作品の前にたたずみ「絵画と同じよ」と言った女。「ハムレット」の芝居を身を乗り出してみた女。

おそらく結婚生活とは芸術の墓場なのだろう。

[映画]これが私の人生設計

監督:リッカルド・ミラーニ

冒頭、超田舎育ちのヒロインの神童ぶりが描かれる。幼いころから絵に才能を見せるも、その傑作が家族には理解されず暖炉に放り込まれていく様子が哀しくも笑える展開。学校の教師が才能を発見し、やがてローマ大学で優秀な成績を残し、現在ロンドンで建築家として働いている。しかし、この雨の多い街は彼女には厳しかったらしい。雨が雪に変わったある夜、スパゲッティにほんのわずかの(なんでこんなに少ないのか?)のソースをかけて侘びしそうに食べる彼女はある決心をする。懐かしいイタリアに帰ること。しかし、建築家仲間にそのことを告げると、彼らは固まり無言で彼女をみつめる。「私何かへんなこと言ったかしら」。

ここまでおよそ10分ほど。ヒロインのセレーナ・ブルーノに扮するパオラ・コルテッレージは、若いころのリース・ウィザースプーンを彷彿させるコメディエンヌぶりを発揮している。

イタリアに帰った彼女は、インテリアや墓碑銘の仕事などをしながら父の形見のオートバイを乗り回し悪戦苦闘の毎日。オートバイを悪ガキにまんまと騙し取られ、生活のためにイタリア料理店でアルバイトまでするはめに。各国から訪れる客に料理の説明を求められ、様々な言語を駆使する彼女(日本語もお上手!)。そんな彼女を見てイケメンオーナーは「何者なんだ?」と問いかける。

そう、こんなに優秀な女性がアルバイトで生活をせざるをえないといけないというイタリアの現状にびっくり。イタリアってこれほどまでの男社会だったのか。面接で合格しても「妊娠」したら解雇という契約だったり、ヨーロッパってどこももっと進歩的かと思っていたら違うのね。

セレーナは盗まれたオートバイを追ってたまたま出くわした集合住宅で、住人の中年女性と知り合う。住宅の似たような外観のため、迷子になるという彼女は絵の具で自分の家までの印をつけていた。そこでセレーナがみかけたのは、集合住宅の再開発案を募集しているポスター。彼女はそのコンペに応募しようと考える。一方で、オーナーとの恋は徐々に進行しているように見えた…。オーナーに誘われでかけたバーで、オーナーが突然『フル・モンティ』や『マジック・マイク』ばりにステージに上がって踊りだし、自慢の肉体美を披露する展開に爆笑。なんと彼はゲイだったのですね。そのため、奥さんと別れて一人暮らしをしているのだとか。彼にすっかりときめいていたセレーナは愕然としてしまう。恋は敗れたものの、彼女たちは友人として親交を深めていく。彼女の家のあまりの狭さに自分の家にくるように誘うオーナー。二人は同居することになり、コンペの仕事を大量に持ち込む彼女。そんなコミカルな日常を経ていざコンペへ。ところが、ここでも男性優位社会は揺るぎなく、審査委員たちは「セレーナ・ブルーノ」は男性に違いないと思い込んでおり、目の前の彼女に彼はどこなのかと尋ねてくる始末。とっさに自分は代理人で、「セレーナ・ブルーノ」は日本の大阪に出張中だと応えてプレゼンを始めてしまう。東京でもなければ京都でもなく「大阪」というのがよいですね(笑)。そしてなんと彼女の案件が採用される。さて、さてどうなっていくのやら。

日本でも2010年代だというのに「昭和初期の遺物」みたいなものが未だにごろごろしており、男性社会の困ったものがまだまだ溢れていたりするのだが、イタリアも事情は同じらしい。そういったものにあぐらをかいた権力の権化みたいなものに、これまで耐えてきた人たちが「ノー」をつきつけるラストが気持ちいい。

場末に立つ巨大な集合住宅もなかなか魅力的な空間だった。建築映画としてもきちんと記憶に残しておきたい。

 

マネー・ショート 華麗なる大逆転

原題:The Big Short 2015年アメリカ映画 監督: アダム・マッケイ 原作者: マイケル・ルイス

金融知識がないとちょいとつらいかと思っていたけれど、要所、要所に趣向を凝らした解説が入る。もともと冒頭から登場人物の一人、ライアン・ゴズリングが画面に向かって「わけわかんないだろう? それが狙いなんだ。金融機関はわざと独特な言い回しを編み出して自分たちがやっていることに疑問をもたれないようにしているんだ」と話しかけてくるという体で、パワフルに画面を重ねてくるもんだから違和感なく見ることができる。マーゴット・ロビー泡風呂にはいって解説してくれる場面、「これでわかったわね」と言われても経済音痴の私はよくわからない(汗)が、シェフのアンソニーボーディンによる良くない具材はシチューにして誤魔化すというたとえ話はなんとなくわかった感じになる。経済学者とセリーナ・ゴメスカジノでかける例えはなるほどなと思わせる。ひどい商品がここまで堂々と売られていることに驚くけれどもそれが平然と成り立ってしまっていることが更に驚きだ。「住宅は安全」という神話に誰も疑問をもたないがゆえにこんなからくりが成り立つのか!?

リーマン・ショックのときですら儲かった人がいるらしいとは聞いてはいたけれど、その人たちは誰もが金儲けというステージで頭を空っぽにしているときに、ちゃんとこのシステムを見ぬいていた人たちなのだ。

その何組かの投資家を映画は追う、いわば群像劇になっている。ヘビメタが好きで常にガンガン音楽を鳴らしまくり、自身もドラムをやっているマイケル・バーリー(クリスチャン・ベール)、不正が嫌いなヘッジファンド・マネージャー(スティーブ・カレル)、そしてウォール街進出を狙う若き投資家二人組。彼らは銀行が売り出している金融商品のいかがわしさに注目し、調査をはじめる。サブプライムに関しては『ドリームホーム 99%を操る男たち』(監督:ラミン・バーラニ)を先にみていたのが良かった。この作品の中で、悪徳不動産屋の男が「この国は負け犬には手をかさない」と言ってのけるように、このシステムはあくまでも銀行が損しないように出来ており、住み手である弱者は無慈悲に切り捨てられる。アメリカ社会が一部の超裕福な人々のためだけにまわっている世界であることが描かれていた。

本作はそのような現状を小気味良い演出と魅力的な人物でテンポよく見せていく。

スティーブ・カレルのチームがサブプライム実態を調べに回る際、自分たちの不正を隠すどころか笑いが止まらないというふうに自慢するブローカーや、いやしさを隠さないにやついたみっともないアジア人(日本人だろうか?)など完全に狂騒曲のよう。スティーブ・カレルが「まったく理解できない」という顔つきを終始しているのが面白い。

サブプライムが破綻してもセオリーどおりに値段が下がらず、顧客や上層部からしめつけが厳しくなる様子など、はらはらしつつ金融業界の底知れぬデタラメさに驚きの連続だ。作品中、盛んにアメリカの経済の終焉という言葉が飛び交うが、政府が介入したとかでなんだか平然とまた復活してなにごともなかったかのようになっているのはなんなんだろうか?? とにもかくにもこの複雑な世界を映画は「楽しく」見せてくれる。

映画の冒頭に「やっかいなのは知らないことじゃない。知らないのに知っていると思うことだ」というマーク・トゥエインの言葉が引用されているのだけれど、映画を見終わったあと、しみじみとその言葉に思いをはせずにはいられない。

プリティ・イン・ピンクをWOWOWで久しぶりに観る

ジョン・ヒューズの一連の青春もので唯一ロードショーで観ているのが『プリティ・イン・ピンク』だ(ジョン・ヒューズは脚本を担当。監督はハワード・ドイッチ)。登場人物たちの年齢に近かった時に観た当時よりも今観たほうが圧倒的に面白く感じた。なぜか。これはもう当時の自分が子どもだったのだ。モリーアンドリュー・マッカーシーも素敵だけど、今どき身分違いの恋だなんて実にベタな少女漫画的世界だな、なんて当時はそんなふうにしか捉えられなかった。当時の日本といえば一億総中流などと言われていたくらいだし、学園カーストなどもほぼなかった(少なくとも自分の周りには)。のほほんと暮らしていて社会というものが見えていなかったのだ。映画の彼女たちのほうがずっと大人だ。あらゆる世界で二極分化が起き、格差が広がっている今、この映画を観るとぐっと身近な世界に感じられる。名作と呼ばれる作品は古くなるどころか新しく何度も生まれ変わるというのは本当だ。

冒頭、Psychedelic FursのPretty In Pinkをバックにカメラは線路が走る風景をゆっくりパンしていき、その近くにあるモリーの家の前に止まる。郊外の落ち着いた家というのではなく、少し場末にある家ということがさりげなく示される。で、モリーがストッキングやスカートや靴下などをつけて朝の用意をしている姿をクロースアップで撮り、コーヒーの支度をして父親を起こしに行く場面へと続いていく。実に健気な娘というわけだが、父に職がなく、二人暮らしだという境遇が示される。二人の会話の間は音が小さくなっていた音楽が再び大きくなるとハイスクールへの登校場面へ。学園映画でお馴染みの黄色いスクールバスが見えるが、映画はモリーが既に校舎の階段を上がっているところから撮っている。 バスで通っているのであればバスを降りるところから映していくのでは、と思っていたらあとで彼女は自家用車通学なのが判明。多分中古のものを丁寧にメンテナンスして乗っているのだろう。車には詳しくないので、なんて種類なのかはわからないけれど、彼女のファッションによくあっている。他の生徒たちが乗っているのに比べてもかなり個性的だ。さらにいえば、彼女の住居は、スクールバスが巡回しないはずれにあると推測もできる。リッチな生徒たちが多い学校に成績優秀故に遠くから通っているというわけだ(あくまでも推測)。

そんな彼女を認めないいじわるリッチ生徒たちは、一様にファラ・フォーセット・メジャーズのヘアカット「ファラ・カット」をしており、80年代ファッションに身を包んでいる。自分で服を縫ったり、アレンジして独自のファッションに身を包むモリーは自分たちと違うというだけで目の敵にされている。そんな中、社長の御曹司の超いいところの男子、アンドリュー・マッカーシーモリーのことを好きになる。瞳がきらきらの笑顔の麗しい男性でモリーも彼のことが好きになっていく。

モリーが属するグループのところに彼がやってくる場面があるのだが、金持ちの彼が着ている当時の流行服がそこでは寝間着に見えてしまうという・・・。80年代ファッションってほんと独特。

見た目はとても似合いのカップルなんだけど、二人が付き合うということで、二人はグループ外の人間からは敵視され、自分たちの仲間からも奇異な目で観られるという状態に陥ってしまう。そんな時に弱いのはやはり男性の方(という偏見)。プロムに誘っておきながらいざとなると雲隠れしてしまう。詰め寄ると別の子を誘ったという。

それにしてもプロムって大変な行事だ。自由参加だから別にでなくても良いものらしいが、これに出なかったことで後悔したという女の子の話も出てくる。最近観た「21ジャンプストリート」という映画でも主人公の二人はそれぞれの理由でプロムに出られず落ち込んでいるという場面が出てきた(更に彼らには二度目のプロムが訪れるのだがそれも一筋縄ではいかないのだった)。

最後には、幼なじみでずっとモリーの周りをうろうろしているジョン・クライヤーに見せ場がやってくる。彼がモリーがアルバイトしているレコードショップでオーティス・レディングの「Try a Little Tenderness」を口ずさみながら踊って回るシーンも見どころの一つ。彼が最後にひとりぼっちにならずちゃんと別の女の子が現れるところは往年のMGMミュージカルのよう。

しかし、めでたしめでたしで終わったモリーアンドリュー・マッカーシーの恋の行く末を思うと、なかなかしんどうそうだなとついつい思ってしまうのは歳をとった弊害なのだろう。若いころはその純粋さに感動することができたというのに。

赤毛のレドメイン家

 原題 THE RED REDMAYNES (1922) (東京創元社創元推理文庫

『だれがコマドリを殺したのか』が新訳で再販され、本屋で平積みにされていたのをみながら、イーデン・フィルポッツって読んだことないんだけれど面白いのかしら、と手にとりつつ、結局迷って戻してしまうというようなことを何度か繰り返していた。先日、ジュンク堂書店三宮センター街店で『赤毛のレドメイン家』が目に入った時は、一度読んでみようか、と案外すっと手が伸びた。センタープラザ西館二階にあるジャズ喫茶「茶房Voice」で読み始めると、さすが江戸川乱歩が絶賛しただけあって、ぐいぐい読ませる。冒頭はイギリスのダートムアを背景に、ロンドンから休暇でやってきた名のある刑事が、事件に巻き込まれていく様を描いていく。

刑事は釣りに出かけた荒涼とした沼沢地で「かって見たこともないほど美しい女性を見た」。女は彼と一瞬目を合わせながらも、楽しげに軽やかにその場を通り過ぎて行く。彼女のことが気になって釣りにも身がはいらない刑事のもとに通りすがりの男が声をかけてくる。真っ赤な髪の毛のがっしりした男。後に、男はロバート・レドメインで、美しい女性の叔父であり、女性の夫を殺して逃走をはかった人物であることが判明する。

刑事は悲しみに沈みながらも気丈に自身の家系や事件の顛末を語る女性のために、休暇中でありながら、捜査に加わり、彼女の気持に応えようとする。しかし、簡単に解決されるかに見えた事件は、思いがけず行き詰まってしまう。

やがて、事件は、イタリアのコモ湖畔にうつり、行方不明だったロバート・レドメインが姿を現して第二の殺人が起きる。イギリスの時と同様、被害者も加害者もこつ然と姿を消してしまうのだった。

本格ミステリはこれ以上あれこれ説明できないのがもどかしい。本来なら何も知らないで読み始めるのがベストだろう。読んだ人とは是非お話したいものだ。このプロット、あるいは種あかしとして浮かんでくる真実はかなり自分好みであり、江戸川乱歩が絶賛するのもそのあたりを乱歩がたいそう気に入ったからではないだろうか?

乱歩がこの『赤毛のレドメイン家』を翻案した『緑衣の鬼』という作品があるというので、早速読んでみた。ストーリーはほぼ一緒で、日本の風景に上手に置き換えてある。乱歩らしいおどろおどろしい仕掛けも用いつつ、ミスリードの工夫も凝らされているが、『赤毛のレドメイン』のストーリー展開の核になる重要な部分は意外と強調されていない。やはり乱歩はこの作品の構成よりも例の部分が気に入ったのだという私の仮説はまったくの見当違いでもなさそうだ。きっとあの台詞を一番書きたかったのではないか。

と、なんとも微妙な書きかたしかできないのが残念だが、つまり、そういうことなのだ。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)


ある男(「私」)が人里離れた場所で道に迷い、車のガソリンも底をつき、やっと給油所をみつけるという場面から物語は始まる。それだけでも心細いのに、恐ろしい厳寒期が訪れているという町で雹に振られ、ほどなく雪となり、路面は凍り、何度もスリップする。私はある任務から戻って、かって結婚したいと思っていた少女のもとを訪ねようとしている。幼い頃から母親に虐待され、臆病で脆弱で常に「怯えた従属者」として成長した少女を冷酷な世界から救おうとした私だったが、少女はある日突然私を捨て、別の男と結婚したのだという。
この冒頭はある意味正統派のヒーローと、弱者としてのヒロインの関係を想起させ、ヒーローがヒロインを救う物語なのだ、と多くの読者が想像するだろう。しかし、物語は徐々に予想を超える展開に進んで行く。その場面が過去なのか現在なのか、ただの妄想なのか、現実なのか、読み手は混乱していく。本来なら一行あけるなりされるべきセンテンスが前後の関係なくふいに現れ、まるで時空を駆け抜けるように、謎を残しながらどんどんと語られていくのである。

迫り来る氷河の記述は圧巻である。

頭上では虹色の冷たい焰が脈動し、それを貫いて、四囲にそそりたつ堅固な氷の峰々から放射される何本もの純粋な白熱光のシャフトが閃き走っている。それよりも近く、家を囲む氷の鞘にくるまれた樹々は、めまぐるしく変容する上空の鮮烈な火の滝を映し、超自然的なきらめくプリズムの宝石を滴らせている。見慣れた夜空の代わりに、オーロラが形作る、燃え立ち揺れ動く強烈な寒気と色彩の天蓋。そのもとで、大地はそこに住むものともども、眼のくらむ輝きを放つ、通り抜けることのできない氷の断崖に捉えられている。世界は逃亡の不可能な酷寒の牢獄と化し、あらゆる生き物は、この樹々同様、まばゆい死の光輝を放つ壁の内側で、すでに生命なき存在となっている。

 確実に氷に侵食されていく世界と、情報を隠蔽された人々が国家間で狂ったように戦争を続けていく描写とともに、少女が苛まれていく姿が何度も描かれる。少女をさいなんでいるのは誰なのか。少女が結婚した相手の男なのか、彼女をさらった提督なのか、そして「私」なのか。少女の死を暗示する場面が何度も登場する。いつしか「私」がヒーローであるという考えは消え、「私」自身が彼女を苛んでいる一人であることを読み手は確信していく。しかし、その「私」と「提督」との関係も、甚だ不可解でもしやこれは「分身もの」の一つなのかもしれないと深読みしたくなる。
少女は暴力を喚起してしまう。この作品においてそれだけは間違いない事実のように思われる。弱さというものに人は怒りを覚える生き物らしい。おそらく、自分を照らす鏡だからだ。
氷河が世界を飲み込んでいく中、私は少女を追い続ける。これは複雑なラブストーリーでもある。最初から最後までこちらの想像を超えたところに物語はつっぱしっていくのである。

大阪・福島の聖天通り商店街を歩いてたら、「トランペット」という名の古本屋があったので入ってみた。これがなかなか通な品揃え。金子光晴小島信夫庄野潤三といった日本作家とか、フィリップ・K・ディックレイ・ブラッドベリといった海外作家の文庫本、映画関連本や、植草甚一等々。お値段がリーズナブルなのも嬉しい。また来たいと思わせる。二冊購入。一冊は金井美恵子『岸辺のない海』(中公文庫)。そしてもう一冊が今回紹介する『ニューヨーク・ブルース』(ウィリアム・アイリッシュ/創元推理文庫)だ。

 アイリッシュといえば、サスペンス・スリラーで有名な作家というイメージだが、ここに収められている13編は彼らしい時間制限のサスペンスあり、ユーモラスなオチのついた犯罪ものあり、少女を狙う連続誘拐犯に挑む少年の冒険譚ありと、バラエティに飛んだ充実した作品集になっている。

自由の女神事件」は、奥さんに「たまには博物館にでも出かけて彫像でも見て来なさい」と言われた刑事がどうせならでっかい彫像をみてきてやろうと自由の女神見物に出かける。女神の中の階段を登っていく途中で出会ったやけに太った男が忽然といなくなり、刑事は独自で調査を始めるという作品。自由の女神の中に入って見学できるって初めて知った。

「さらばニューヨーク」は犯罪を犯した男がホテルの部屋に閉じこもっているが、警察に居場所を嗅ぎつけられ、周囲を固められていく中での葛藤を描いている。部屋の窓から眺めるニューヨークの街並みは次のように描写される

ニューヨークのマレーヒル、午後六時の街頭風景が、小さな平行四辺形に区切られて目にとびこんでくる。上空にはパン・アメリカン・ビィルディングの照明の最上層が、湿気と一酸化炭素のなかで、ちらちらゆらゆら揺れている(中略)。下方の歩道に目を移すと、街頭のぼーっとにじむグリーンの光がひとつ、遠近効果でカボチャほどにふくれて、わたしの窓にせりあがってくる。そして、分け開かれたブラインドがつくる細い空間にそって、ライトが赤と白のかがやくビーズ玉のようにつらなって過ぎて行く。みな一方向、右から左へ走っている。三十七丁目は西行き一方通行なのだ。そしてどれもふたつずつ、ヘッドライトとテールライト、ふたつならんで、暖慢な走行の渦とかまびすしいクラクションの交錯のなかを進んで行く。

 ラジオから「ウェストサイド物語」の「トゥナイト」が流れてくる。さらに夜はふける。

これは夜の深淵、コーヒー・カップの底の澱であり、滓である。暗鬱の時間(ブルーアワーズ)。男たちの神経はいよいよはりつめ、女たちの不安はつのる。これより男と女は愛しあい、あるいは殺し合い、ときには両方をやる。そして、『レイト・ショー』のタイトル・シルエットの窓に、ひとつずつ灯がともるにつれて、まわりの本物の窓は暗くなってゆく。これより先この静寂は、足をとられた酔っぱらいのわびしいののしり声か、急カーブを切る車軸があげる金切り声によってのみ破られる。あるいは、ビリー・ダニエルズが『ゴールデン・ボーイ』で歌ったようにー〈町は眠り、路上に人影ひとつないまも、ここにはひとつの生活がー〉

夜半を過ぎて、世界は視覚から聴覚へと移る。男は警察がやってきたことを感じ取る。「音の存在よりも音の欠如でわかるのだ」。隣の部屋のノックの音が聞こえ、宿泊客たちが避難させられている様子が耳にはいってくる。

待ち受ける恐怖はいちどにふたつの恐怖を合わせもつー待ち受ける恐怖と、おそろしい事態が起こると同時にやってくる恐怖と。現実の恐怖には現実の恐怖しかない。なぜなら、事態が起こったときには、もう待ち受ける恐怖はないからである。

このフレーズに感銘を受けた。恐怖とは、恐怖の時間が訪れるのを待ち受けるところに最もやどるものだと常々思っていたから。ここにサスペンスやホラーの真髄があると思う。

「さらばニューヨーク」も忘れがたい傑作短編だ。貧しさ故に夫が犯罪を犯した若い夫婦が、追っ手が迫ってくるのを感じながら、ニューヨークを脱出しようとする物語だ。地下鉄の駅で夫が来るのを待っている女。「ニューヨークのない世界なんてどんなだろう」と彼女は考える。やっと夫がやってきて二人は地下鉄に乗り込む。希望など一つもない。乗り込んできた男に震え、妻は負の連鎖を思う。「ニューヨークよ、さようなら、わたしたちよ、さようなら」。

そして、「命あるかぎり」。ローマで運命的に出会った素敵な男性と結婚した女はやがて彼の異常性に気づき始める。あれ?これ前にどこかで、と思ったら、そう、本作品は、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『マルタ』という作品の原作なのだ。結末はまったく同じだが、そこに至るまでの描写は、かなり、違っていて、原作が、男のサディズムを暗示的に表現しているのに対して、映画の方はかなり変態チックに執拗に描いており見ていてどっと疲れた覚えがある。

「裏窓」などもそうだし、トリュフォーの『暗くなるまでこの恋を』の「暗闇のワルツ」もそうだし、ウィリアム・アイリッシュ作品は映画化されているものも多い。この13の短編だってみんな映像化してもいいくらい。「ヒッチコック劇場」みたいな「ウィリアム・アイリッシュ劇場」ができてもおかしくない。