映画とご飯

映画と外食。

プリティ・イン・ピンクをWOWOWで久しぶりに観る

ジョン・ヒューズの一連の青春もので唯一ロードショーで観ているのが『プリティ・イン・ピンク』だ(ジョン・ヒューズは脚本を担当。監督はハワード・ドイッチ)。登場人物たちの年齢に近かった時に観た当時よりも今観たほうが圧倒的に面白く感じた。なぜか。これはもう当時の自分が子どもだったのだ。モリーアンドリュー・マッカーシーも素敵だけど、今どき身分違いの恋だなんて実にベタな少女漫画的世界だな、なんて当時はそんなふうにしか捉えられなかった。当時の日本といえば一億総中流などと言われていたくらいだし、学園カーストなどもほぼなかった(少なくとも自分の周りには)。のほほんと暮らしていて社会というものが見えていなかったのだ。映画の彼女たちのほうがずっと大人だ。あらゆる世界で二極分化が起き、格差が広がっている今、この映画を観るとぐっと身近な世界に感じられる。名作と呼ばれる作品は古くなるどころか新しく何度も生まれ変わるというのは本当だ。

冒頭、Psychedelic FursのPretty In Pinkをバックにカメラは線路が走る風景をゆっくりパンしていき、その近くにあるモリーの家の前に止まる。郊外の落ち着いた家というのではなく、少し場末にある家ということがさりげなく示される。で、モリーがストッキングやスカートや靴下などをつけて朝の用意をしている姿をクロースアップで撮り、コーヒーの支度をして父親を起こしに行く場面へと続いていく。実に健気な娘というわけだが、父に職がなく、二人暮らしだという境遇が示される。二人の会話の間は音が小さくなっていた音楽が再び大きくなるとハイスクールへの登校場面へ。学園映画でお馴染みの黄色いスクールバスが見えるが、映画はモリーが既に校舎の階段を上がっているところから撮っている。 バスで通っているのであればバスを降りるところから映していくのでは、と思っていたらあとで彼女は自家用車通学なのが判明。多分中古のものを丁寧にメンテナンスして乗っているのだろう。車には詳しくないので、なんて種類なのかはわからないけれど、彼女のファッションによくあっている。他の生徒たちが乗っているのに比べてもかなり個性的だ。さらにいえば、彼女の住居は、スクールバスが巡回しないはずれにあると推測もできる。リッチな生徒たちが多い学校に成績優秀故に遠くから通っているというわけだ(あくまでも推測)。

そんな彼女を認めないいじわるリッチ生徒たちは、一様にファラ・フォーセット・メジャーズのヘアカット「ファラ・カット」をしており、80年代ファッションに身を包んでいる。自分で服を縫ったり、アレンジして独自のファッションに身を包むモリーは自分たちと違うというだけで目の敵にされている。そんな中、社長の御曹司の超いいところの男子、アンドリュー・マッカーシーモリーのことを好きになる。瞳がきらきらの笑顔の麗しい男性でモリーも彼のことが好きになっていく。

モリーが属するグループのところに彼がやってくる場面があるのだが、金持ちの彼が着ている当時の流行服がそこでは寝間着に見えてしまうという・・・。80年代ファッションってほんと独特。

見た目はとても似合いのカップルなんだけど、二人が付き合うということで、二人はグループ外の人間からは敵視され、自分たちの仲間からも奇異な目で観られるという状態に陥ってしまう。そんな時に弱いのはやはり男性の方(という偏見)。プロムに誘っておきながらいざとなると雲隠れしてしまう。詰め寄ると別の子を誘ったという。

それにしてもプロムって大変な行事だ。自由参加だから別にでなくても良いものらしいが、これに出なかったことで後悔したという女の子の話も出てくる。最近観た「21ジャンプストリート」という映画でも主人公の二人はそれぞれの理由でプロムに出られず落ち込んでいるという場面が出てきた(更に彼らには二度目のプロムが訪れるのだがそれも一筋縄ではいかないのだった)。

最後には、幼なじみでずっとモリーの周りをうろうろしているジョン・クライヤーに見せ場がやってくる。彼がモリーがアルバイトしているレコードショップでオーティス・レディングの「Try a Little Tenderness」を口ずさみながら踊って回るシーンも見どころの一つ。彼が最後にひとりぼっちにならずちゃんと別の女の子が現れるところは往年のMGMミュージカルのよう。

しかし、めでたしめでたしで終わったモリーアンドリュー・マッカーシーの恋の行く末を思うと、なかなかしんどうそうだなとついつい思ってしまうのは歳をとった弊害なのだろう。若いころはその純粋さに感動することができたというのに。

赤毛のレドメイン家

 原題 THE RED REDMAYNES (1922) (東京創元社創元推理文庫

『だれがコマドリを殺したのか』が新訳で再販され、本屋で平積みにされていたのをみながら、イーデン・フィルポッツって読んだことないんだけれど面白いのかしら、と手にとりつつ、結局迷って戻してしまうというようなことを何度か繰り返していた。先日、ジュンク堂書店三宮センター街店で『赤毛のレドメイン家』が目に入った時は、一度読んでみようか、と案外すっと手が伸びた。センタープラザ西館二階にあるジャズ喫茶「茶房Voice」で読み始めると、さすが江戸川乱歩が絶賛しただけあって、ぐいぐい読ませる。冒頭はイギリスのダートムアを背景に、ロンドンから休暇でやってきた名のある刑事が、事件に巻き込まれていく様を描いていく。

刑事は釣りに出かけた荒涼とした沼沢地で「かって見たこともないほど美しい女性を見た」。女は彼と一瞬目を合わせながらも、楽しげに軽やかにその場を通り過ぎて行く。彼女のことが気になって釣りにも身がはいらない刑事のもとに通りすがりの男が声をかけてくる。真っ赤な髪の毛のがっしりした男。後に、男はロバート・レドメインで、美しい女性の叔父であり、女性の夫を殺して逃走をはかった人物であることが判明する。

刑事は悲しみに沈みながらも気丈に自身の家系や事件の顛末を語る女性のために、休暇中でありながら、捜査に加わり、彼女の気持に応えようとする。しかし、簡単に解決されるかに見えた事件は、思いがけず行き詰まってしまう。

やがて、事件は、イタリアのコモ湖畔にうつり、行方不明だったロバート・レドメインが姿を現して第二の殺人が起きる。イギリスの時と同様、被害者も加害者もこつ然と姿を消してしまうのだった。

本格ミステリはこれ以上あれこれ説明できないのがもどかしい。本来なら何も知らないで読み始めるのがベストだろう。読んだ人とは是非お話したいものだ。このプロット、あるいは種あかしとして浮かんでくる真実はかなり自分好みであり、江戸川乱歩が絶賛するのもそのあたりを乱歩がたいそう気に入ったからではないだろうか?

乱歩がこの『赤毛のレドメイン家』を翻案した『緑衣の鬼』という作品があるというので、早速読んでみた。ストーリーはほぼ一緒で、日本の風景に上手に置き換えてある。乱歩らしいおどろおどろしい仕掛けも用いつつ、ミスリードの工夫も凝らされているが、『赤毛のレドメイン』のストーリー展開の核になる重要な部分は意外と強調されていない。やはり乱歩はこの作品の構成よりも例の部分が気に入ったのだという私の仮説はまったくの見当違いでもなさそうだ。きっとあの台詞を一番書きたかったのではないか。

と、なんとも微妙な書きかたしかできないのが残念だが、つまり、そういうことなのだ。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)


ある男(「私」)が人里離れた場所で道に迷い、車のガソリンも底をつき、やっと給油所をみつけるという場面から物語は始まる。それだけでも心細いのに、恐ろしい厳寒期が訪れているという町で雹に振られ、ほどなく雪となり、路面は凍り、何度もスリップする。私はある任務から戻って、かって結婚したいと思っていた少女のもとを訪ねようとしている。幼い頃から母親に虐待され、臆病で脆弱で常に「怯えた従属者」として成長した少女を冷酷な世界から救おうとした私だったが、少女はある日突然私を捨て、別の男と結婚したのだという。
この冒頭はある意味正統派のヒーローと、弱者としてのヒロインの関係を想起させ、ヒーローがヒロインを救う物語なのだ、と多くの読者が想像するだろう。しかし、物語は徐々に予想を超える展開に進んで行く。その場面が過去なのか現在なのか、ただの妄想なのか、現実なのか、読み手は混乱していく。本来なら一行あけるなりされるべきセンテンスが前後の関係なくふいに現れ、まるで時空を駆け抜けるように、謎を残しながらどんどんと語られていくのである。

迫り来る氷河の記述は圧巻である。

頭上では虹色の冷たい焰が脈動し、それを貫いて、四囲にそそりたつ堅固な氷の峰々から放射される何本もの純粋な白熱光のシャフトが閃き走っている。それよりも近く、家を囲む氷の鞘にくるまれた樹々は、めまぐるしく変容する上空の鮮烈な火の滝を映し、超自然的なきらめくプリズムの宝石を滴らせている。見慣れた夜空の代わりに、オーロラが形作る、燃え立ち揺れ動く強烈な寒気と色彩の天蓋。そのもとで、大地はそこに住むものともども、眼のくらむ輝きを放つ、通り抜けることのできない氷の断崖に捉えられている。世界は逃亡の不可能な酷寒の牢獄と化し、あらゆる生き物は、この樹々同様、まばゆい死の光輝を放つ壁の内側で、すでに生命なき存在となっている。

 確実に氷に侵食されていく世界と、情報を隠蔽された人々が国家間で狂ったように戦争を続けていく描写とともに、少女が苛まれていく姿が何度も描かれる。少女をさいなんでいるのは誰なのか。少女が結婚した相手の男なのか、彼女をさらった提督なのか、そして「私」なのか。少女の死を暗示する場面が何度も登場する。いつしか「私」がヒーローであるという考えは消え、「私」自身が彼女を苛んでいる一人であることを読み手は確信していく。しかし、その「私」と「提督」との関係も、甚だ不可解でもしやこれは「分身もの」の一つなのかもしれないと深読みしたくなる。
少女は暴力を喚起してしまう。この作品においてそれだけは間違いない事実のように思われる。弱さというものに人は怒りを覚える生き物らしい。おそらく、自分を照らす鏡だからだ。
氷河が世界を飲み込んでいく中、私は少女を追い続ける。これは複雑なラブストーリーでもある。最初から最後までこちらの想像を超えたところに物語はつっぱしっていくのである。

大阪・福島の聖天通り商店街を歩いてたら、「トランペット」という名の古本屋があったので入ってみた。これがなかなか通な品揃え。金子光晴小島信夫庄野潤三といった日本作家とか、フィリップ・K・ディックレイ・ブラッドベリといった海外作家の文庫本、映画関連本や、植草甚一等々。お値段がリーズナブルなのも嬉しい。また来たいと思わせる。二冊購入。一冊は金井美恵子『岸辺のない海』(中公文庫)。そしてもう一冊が今回紹介する『ニューヨーク・ブルース』(ウィリアム・アイリッシュ/創元推理文庫)だ。

 アイリッシュといえば、サスペンス・スリラーで有名な作家というイメージだが、ここに収められている13編は彼らしい時間制限のサスペンスあり、ユーモラスなオチのついた犯罪ものあり、少女を狙う連続誘拐犯に挑む少年の冒険譚ありと、バラエティに飛んだ充実した作品集になっている。

自由の女神事件」は、奥さんに「たまには博物館にでも出かけて彫像でも見て来なさい」と言われた刑事がどうせならでっかい彫像をみてきてやろうと自由の女神見物に出かける。女神の中の階段を登っていく途中で出会ったやけに太った男が忽然といなくなり、刑事は独自で調査を始めるという作品。自由の女神の中に入って見学できるって初めて知った。

「さらばニューヨーク」は犯罪を犯した男がホテルの部屋に閉じこもっているが、警察に居場所を嗅ぎつけられ、周囲を固められていく中での葛藤を描いている。部屋の窓から眺めるニューヨークの街並みは次のように描写される

ニューヨークのマレーヒル、午後六時の街頭風景が、小さな平行四辺形に区切られて目にとびこんでくる。上空にはパン・アメリカン・ビィルディングの照明の最上層が、湿気と一酸化炭素のなかで、ちらちらゆらゆら揺れている(中略)。下方の歩道に目を移すと、街頭のぼーっとにじむグリーンの光がひとつ、遠近効果でカボチャほどにふくれて、わたしの窓にせりあがってくる。そして、分け開かれたブラインドがつくる細い空間にそって、ライトが赤と白のかがやくビーズ玉のようにつらなって過ぎて行く。みな一方向、右から左へ走っている。三十七丁目は西行き一方通行なのだ。そしてどれもふたつずつ、ヘッドライトとテールライト、ふたつならんで、暖慢な走行の渦とかまびすしいクラクションの交錯のなかを進んで行く。

 ラジオから「ウェストサイド物語」の「トゥナイト」が流れてくる。さらに夜はふける。

これは夜の深淵、コーヒー・カップの底の澱であり、滓である。暗鬱の時間(ブルーアワーズ)。男たちの神経はいよいよはりつめ、女たちの不安はつのる。これより男と女は愛しあい、あるいは殺し合い、ときには両方をやる。そして、『レイト・ショー』のタイトル・シルエットの窓に、ひとつずつ灯がともるにつれて、まわりの本物の窓は暗くなってゆく。これより先この静寂は、足をとられた酔っぱらいのわびしいののしり声か、急カーブを切る車軸があげる金切り声によってのみ破られる。あるいは、ビリー・ダニエルズが『ゴールデン・ボーイ』で歌ったようにー〈町は眠り、路上に人影ひとつないまも、ここにはひとつの生活がー〉

夜半を過ぎて、世界は視覚から聴覚へと移る。男は警察がやってきたことを感じ取る。「音の存在よりも音の欠如でわかるのだ」。隣の部屋のノックの音が聞こえ、宿泊客たちが避難させられている様子が耳にはいってくる。

待ち受ける恐怖はいちどにふたつの恐怖を合わせもつー待ち受ける恐怖と、おそろしい事態が起こると同時にやってくる恐怖と。現実の恐怖には現実の恐怖しかない。なぜなら、事態が起こったときには、もう待ち受ける恐怖はないからである。

このフレーズに感銘を受けた。恐怖とは、恐怖の時間が訪れるのを待ち受けるところに最もやどるものだと常々思っていたから。ここにサスペンスやホラーの真髄があると思う。

「さらばニューヨーク」も忘れがたい傑作短編だ。貧しさ故に夫が犯罪を犯した若い夫婦が、追っ手が迫ってくるのを感じながら、ニューヨークを脱出しようとする物語だ。地下鉄の駅で夫が来るのを待っている女。「ニューヨークのない世界なんてどんなだろう」と彼女は考える。やっと夫がやってきて二人は地下鉄に乗り込む。希望など一つもない。乗り込んできた男に震え、妻は負の連鎖を思う。「ニューヨークよ、さようなら、わたしたちよ、さようなら」。

そして、「命あるかぎり」。ローマで運命的に出会った素敵な男性と結婚した女はやがて彼の異常性に気づき始める。あれ?これ前にどこかで、と思ったら、そう、本作品は、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『マルタ』という作品の原作なのだ。結末はまったく同じだが、そこに至るまでの描写は、かなり、違っていて、原作が、男のサディズムを暗示的に表現しているのに対して、映画の方はかなり変態チックに執拗に描いており見ていてどっと疲れた覚えがある。

「裏窓」などもそうだし、トリュフォーの『暗くなるまでこの恋を』の「暗闇のワルツ」もそうだし、ウィリアム・アイリッシュ作品は映画化されているものも多い。この13の短編だってみんな映像化してもいいくらい。「ヒッチコック劇場」みたいな「ウィリアム・アイリッシュ劇場」ができてもおかしくない。

 

 

 

ヘレン・マクロイに外れなし

逃げる幻 (創元推理文庫)

逃げる幻 (創元推理文庫)


四分の一マイルほど離れたところから観られていた少年が突如として姿を消す。何不自由ない家庭で育った少年は過去にも何度も家出していた。スコットランドに休暇にやってきたアメリカ軍の予備役大尉であるピーター・ダンバーはこの事件に深く関わっていく。少年に何が起こっているのか。
学校を舞台にしたオカルトチックなミステリー『暗い鏡の中に』や不可思議な謎と生き生きした人間ドラマで魅了する『幽霊の2/3』とはまたがらりと違った雰囲気。第二次世界大戦を背景にしたスパイ小説の趣きもある作品だ。スコットランドのハイランド地方のミステリアスな雰囲気もハイライトの一つだが、やっぱりこの言葉が出てくる箇所が。

「たしかにピクチャレスクだな」
アーチの下に曲線を描く石の短い階段があり、そこを上がると、中世らしさをたっぷり残している細長い部屋へと続いていた。丸天井はいまどきのどこの天井よりも二倍は高かった。天井には漆喰が塗られ、八角形をずらりと並べた装飾が施され、なにかの模様がペンキで描かれていたが、すっかり色あせてほとんど見えない。しかし、壁と床は外壁と同様にむきだしの石だった。(中略)「ピクチャレスク?」どうやら私はまずいことを言ったようだ。(中略)「父は電気も水道もない本物の古城に住むことがどんなにピクチャレスクでロマンティックか、じっくり披露してまわったわ。そういう骨董趣味のすばらしさを大々的にあおりたてて。フランソワ・クルーエ(一五一〇頃~七ニ 十六世紀フランスの肖像画家)の描いたメアリー・スチュアートの肖像画を見せて、スチュアート朝の初代ダンディー子爵ジョン・グラハムが使った寝室に案内して、バラ島のマクニール家の六人が休戦中に宴会広場で殺されたときの血痕と伝えられているしみも見学してもらった。生きたまま埋められたラヴァト伯フレイザー家の三人の骸骨が、六十年前に掘り出された地下室の穴も。(後略)」


不吉なことが起きるときに必ず現れるという「黒い犬」などはまさにこの舞台だからこそ映える設定だろう。イングランドに制圧されたスコットランドの歴史なども充分盛り込まれており、意外な犯人という展開でも満点の面白さ。

今日聞いた音楽

Another Opus

Another Opus


レム・ウインチェスター1928年3月、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアの生まれ。50年代末から60年代初めてかけて活躍したヴァイブ奏者。
警官からプロのミュージシャンになったという経歴を持つ。音も素晴らしいがジャケットも秀逸。

サリンジャーを読み直しています

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」を読了。兄シーモアの結婚式に出席するためにバディは軍隊から休みをもらってニューヨークへ帰ってくる。しかし肝心の式に兄は現れず、花嫁は泣きながら退出し、バディは成り行きで花嫁の関係の出席者とともにタクシーに乗り込みます。タクシーの中では介添役の夫人がシーモアの悪口を言い始めます。介添夫人はバディがシーモアの弟であることも知っており、バディは彼女の言葉を思わず否定してしまう一幕も。そんなとき、タクシーはパレードにぶつかって動かなくなり、彼らは車を降りて喫茶店にはいろうとします。しかし喫茶店は閉まっており、バディはふと自分たちのアパートに彼らを誘う。そこで彼はシーモアの日記を見つけその断片が紹介されます。バディは思わず飲めないアルコールを口にし、介添夫人たちになんとか飲み物をこさえます。花嫁の家と連絡がとれた介添夫人たちはアパートを出て行きます。

ストーリーにあらわすとこれだけの話なんだけど『ナイン・ストーリーズ』の「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺する男性がシーモアということを知っている読者はなかなか複雑な感情をあちこちに飛ばしながら読み進むことになります。出てくる人物の容姿、姿形までも容易に想像することができ、小さな耳の悪い老人とバディのやりとりにほっとさせられもします。そしていつものようにサリンジャーの作品に出てくる女の子の愛らしさときたら。

グラース兄弟の一人、ブーブーがバディに書いた手紙でフラニーを記述したのが以下の文です。

フラニーといえば、先週のあの子の放送聞いた? 四つの時分、誰もうちにいないときにはいつも、アパートの部屋の中を飛び回っていたという話を、詳しく、とてもかわいらしくしゃべったのよ。今度のアナウンサーは グラントよりもダメ―言うなれば、昔のサリヴァンよりもダメね。きっとあの子が飛ぶことができると夢想しただけだろう、なんていうんだもの。あの子は、あ くまでもそうじゃないってきかないの。それがまた天使みたいなのよ。飛べたことはちゃんと分ってる、だって降りてくると、いつも手の指に電燈の球に触った 埃がついてたんだもの、ですって。

 



天使ってやっぱりいるんだよ

歌うダイアモンド

『歌うダイアモンド マクロイ傑作選』(創元推理文庫)読了。

 

歌うダイアモンド (マクロイ傑作選) (創元推理文庫)

歌うダイアモンド (マクロイ傑作選) (創元推理文庫)

 

 2003年に晶文社から発行され、入手が難しくなっていた、マクロイの自薦短篇集の再刊。その中からいくつか紹介しよう(ネタバレあるかも注意!)。トップに収録されている「東洋趣味」という作品、最近読んだことがあるぞと思ったら、そうそう、米澤穂信によるアンソロジー『世界堂書店』(文春文庫)にも収録されていた。怪奇色豊かなミステリーという点で、実にマクロイらしい作品といえるだろう。しかし、この作品で驚くのは、舞台が清朝支配下の北京で、古い山水の名画が貴重な役割を果たすなど、東洋に関する見識がとても深いことだ。王維という著名な画家が実在するのか、勉強不足なのでよくわからないのだが、仮にこれが架空の画家だとしても、中国美術に精通していなければこういう役割として使うことは出来なかっただろう。美術品がキーになる作品としても記憶しておきたいが、解説を読むと、ヘレン・マクロイは「中国をはじめとする東洋諸国の文芸、美術について並々ならぬ知識を具えていたことは、これまでに邦訳された長編を読んでも明らかだが(実際、マクロイは美術評論を執筆していた時期もある)」とあって、いくつか長編読んでるのに全然気付いていなかったことにちょっとだけ愕然とする(笑)。ともあれ、魅力溢れるエキゾチズムな世界観にひたりながら、しっかり謎解きも味わえる贅沢作だ。

「Q通り十番地」は、夫が寝静まるのを待って、そっと家を出て「抑えることの出来ない欲望」を埋めるために、怪しい街にはいっていく女性の話だが、「恋愛」に関することかと思ったら、実に意表をつく展開で、思わず人ごとではいられなくなる近未来のお話。

「ところかわれば」もジャンルとしてはミステリではなくSF。途中まで、地球人だと思っていた主人公たちが実は火星人で、中盤でそのことが明かされるところでまず感心させられる。火星人は地球に赴き、大いに歓待される。地球人と火星人は見た目も瓜二つで、すぐにでも良好なコミュニケーションが取れそうだったのに、根本的な部分がまったく違っていることがわかる。よくこんなこと考えつくよなぁとその想像力に脱帽してしまう。ちょっとした皮肉も効かせていてさすがだ。途中、火星人が地球人に地球の言葉で心を込めて挨拶するんだけど、これが「よお、ベイビー、調子はどうだい」だったり、「おっす!」だったりして、そのあとに「この挨拶もまずかったようだ」ってさらっと書いてあって爆笑してしまう。ヘレン・マクロイってこんなユーモアたっぷりの作品も書けるのね。

「鏡もて見るごとく」は長編『暗い鏡の中に』の原型になった短編で、これと「歌うダイアモンド」には、精神分析医のベイジル・ウィリング博士が登場する。「歌うダイアモンド」は、ダイヤの九の札の目のような、平たい菱型の物体が時速1500マイルでV字型の編隊を組んで飛んでいるのがアメリカ各地で目撃される、という不可思議な現象で幕を開ける。数字や早さはまちまちだが、みな、物体の形と、飛び去る時の音は共通している。「この件は、つまるところ、SFか、もしくはE・フィリップス・オッペンハイムばりの国際陰謀ミステリーってことですか?」と、登場人物の台詞にある通りの謎が本格ミステリとして結末を迎えるのに、感嘆してしまう。

 本作にはまえがきがついており、ブレット・ハリディが書いている。ヘレン・マクロイとハリディといえばおしどり夫婦として有名(この短篇集が刊行された時には離婚していたそうだが)。ハリディは「風のない場所」について「最後に4つのパラグラフを読んだ時の、喉が締め付けられるような思いを、私は決して忘れることができないだろう。私はただ、みなさんがその同じ四つのパラグラフを読み終え、この本を閉じたあとで、同じような思いを感じていることを願うだけである」と書いている。さすが、作家、うまく表現するよね。勿論、私も、この四つのパラグラフに深く深く吸い込まれてしまった。

 

そして医師も死す

D・M・ディヴァインのデビュー二作目『そして医師も死す』読了。

 

そして医師も死す (創元推理文庫)

そして医師も死す (創元推理文庫)

 

D・M・ディヴァインの作品は、ミステリボックスから出た数冊を始め、翻訳されたものは、全て読んでいる。ジャンルとしては本格推理で、犯人の意外性などミステリとしての面白さはいうまでもないけど、人間描写が丁寧で、どの登場人物たちにも息を吹き込み、ロマンスの要素もあり、普通の小説としての面白さもあるところが、ディヴァインの最大の特徴だろう。

大概は、大きな挫折を追った主人公が、事件に巻き込まれ、過去に恋愛関係だった女性と再会し、心揺らしながら、人生に打ち勝っていくというパターンが多い(ような気がする)が、本作の主人公、医師のアラン・ターナーは他のどの作品よりもちょっと短気でおっちょこちょいのところがあるように思う。尤も、ユーモア小説的な要素はまったくないんだけど。それにしても今回は一癖も二癖もあるいやなやつがいっぱい出てきて、結構私も読んでいて主人公以上に怒りっぽくなっていた気がする。ただ、彼らにしてみたら、まったく忠告を聞かず、自分が納得するまで動き回る主人公の行動の方がいらいらの対象であろう。ミステリの主人公ほど人の意見を聞かない種類の人間はいないかもしれない。

『シェーン偽札を追う』(HPP765)を読む

原題は「Counterfeit Wife」。1947年の作品。

マイアミからニューオリーンズ行きの深夜便に乗る直前、シェーンのもとに一人の男が現れ、切羽詰まった調子でどうしても今夜中にたって明日の朝にはニューオリーンズに到着しなくてはならないのでチケットを譲ってくれという。既に手荷物を預けてしまったというシェーンに男は自分のバッグを渡し、ポータに鞄を取り違えたとこちらの鞄を渡して持ってきてもらえばよい、と言い、シェーンの手に二枚の百ドル札を握らせる。鞄を取り戻したシェーンは男に搭乗券を譲ってやる。航空ターミナルビルに戻ると大柄の金髪女がカウンターで夫が最終便に乗ったかどうかしつこく問いただしていた。女に本当のことを告げるべきかどうかと考えたシェーンは女が運転する車を尾行して、一軒のバーにはいる。そこで男から渡された百ドル札で支払おうとしたところ、その札をどこで手に入れた!?と店主はピストルを突きつけた。

という実に魅力的な出だしでぐいぐい読ませる。今回もシェーンは全裸にされて監禁されたり、傷だらけ。誘拐犯たちに深く関わりすぎて、警察の目をごまかすために嘘をつきまくり、悠然ととぼける様子がユーモラスだ。信頼できる刑事と新聞記者に巧みに真実を少しずつ漏らしながら、事件の真相に迫っていくのが見もの。

今回はアパートメント・ホテルを一度引き払ったという経緯もあるので、自宅での料理シーンはなし。ホテルからニブロック歩いてレストランにはいり朝食を食べている。ベーコン添えのかきたまごを平らげ、コーヒーを三杯も飲んでいる。

探偵コーヒーを飲む

ブレット・ハリディ『死の配当』(HPP658)読了。1939年に発表された本書はマイアミの赤毛探偵マイケル・シェーンものの第一作。私立探偵マイケル・シェーンのアパートに富豪令嬢フィリス・ブライトンが訪ねてくる。母の再婚相手が脳卒中で倒れ、静養のためにマイアミに来たのだという。まもなくニューヨークに残っていた母が会いにくる、その母を自分が殺すかもしれないから監視してくれという奇妙な依頼であった。彼女を返したあと、フィリス・ブライトンの主治医と名乗る男がやってくる。フィリスが母親を殺してしまうかもしれないから、そのようなことがないように見はってくれと男は言う。シェーンはブライトン家に出かけるが、既に母親は刺殺されていた。そこには血まみれのガウンを来た娘が立っていた。

なかなかにショッキングな出だしであるが、驚くべきなのは、シェーンがさっさと証拠を隠滅してしまうことだ。彼が犯人でないと直感すれば、依頼主のために不利な証拠を現場から持ちだしてしまう。ここではガウンと凶器のナイフを。その後起こったある人物の自殺の現場では遺書を読んでから部屋の暖炉で燃やしてしまう。ここまでする探偵はあまり記憶にない。

ひどい暴力を受けたシェーンは全編にわたって痛々しい体で、よろめきながら、気力で事件を解決する。もう本当にボロボロの傷だらけの探偵だ。

シェーンはホテル住まいで、クロークの受付に頻繁に物事を頼んだり、支持を出している。探偵事務所というものは持たず、彼の部屋で依頼主の話を聞く。文中ではアパート、ホテル、アパートメント・ホテル、というようにいろんな表記をされているが、要は、調理場のついた長期滞在者用ホテルなのだろう。ホテル側の応対を観る限り安アパートというよりはちゃんとしたホテルという印象。

面白いのはシェーンを家庭的な男と表現していることだ。依頼人の娘に朝食をつくってやるところではパンをオーブンに入れ、ソーセージをフライパンで炒め、片側が焼けたらそれらをひっくり返して、珈琲の準備をする。

粉末コーヒーを茶匙に七杯はかって、サイフォンに入れた。

さらにその間に持ち帰った証拠のナイフを水洗いして他の包丁とともに仕舞い、ガウンの血の洗い流しまでしている。

二枚の皿にソーセージを分けて盛り、棚から気の食器盆をおろして、それにカップやソーサー、銀のフォーク、ナイフと一緒に乗せた。そのほか、コンデンス・ミルクの小さな罐に二つの穴をあけ、砂糖入れと並べて置く。最後にトーストと沸き立っているサイフォンを両側に載せて、釣り合いをとると、その朝食を満載したトレイを、右手の掌で支え、レストランのウェイターよろしく台所を出た。

また、彼の留守中に部屋に入り込んでいた刑事たちを前にして、買ってきた食材(薄く切った肉、チーズ、ロールパン、果物など)でサンドイッチを作り、一人で食べている。

コーヒーとともに、コニャックをはじめ、酒も飲んでいるが、このあたりは寧ろハードボイルド探偵としては普通だろう。後半は、体がぼろぼろなので、主にホテルに食事を注文して部屋に運ばせている。こういう点でもホテルは便利だ。

事件の展開としては、ラファエロの絵画がからんでくる。これで一儲けしようという有象無象が入り乱れ、高価な絵画を持ち込むために、贋作作家のサインを本物のサインの上に重ねて書くというテクニックが紹介されている。ミステリーとしても活劇としても面白い良作。

本日のBGM

No Room for Squares

No Room for Squares