映画とご飯

映画と外食。

ヘレン・マクロイに外れなし

逃げる幻 (創元推理文庫)

逃げる幻 (創元推理文庫)


四分の一マイルほど離れたところから観られていた少年が突如として姿を消す。何不自由ない家庭で育った少年は過去にも何度も家出していた。スコットランドに休暇にやってきたアメリカ軍の予備役大尉であるピーター・ダンバーはこの事件に深く関わっていく。少年に何が起こっているのか。
学校を舞台にしたオカルトチックなミステリー『暗い鏡の中に』や不可思議な謎と生き生きした人間ドラマで魅了する『幽霊の2/3』とはまたがらりと違った雰囲気。第二次世界大戦を背景にしたスパイ小説の趣きもある作品だ。スコットランドのハイランド地方のミステリアスな雰囲気もハイライトの一つだが、やっぱりこの言葉が出てくる箇所が。

「たしかにピクチャレスクだな」
アーチの下に曲線を描く石の短い階段があり、そこを上がると、中世らしさをたっぷり残している細長い部屋へと続いていた。丸天井はいまどきのどこの天井よりも二倍は高かった。天井には漆喰が塗られ、八角形をずらりと並べた装飾が施され、なにかの模様がペンキで描かれていたが、すっかり色あせてほとんど見えない。しかし、壁と床は外壁と同様にむきだしの石だった。(中略)「ピクチャレスク?」どうやら私はまずいことを言ったようだ。(中略)「父は電気も水道もない本物の古城に住むことがどんなにピクチャレスクでロマンティックか、じっくり披露してまわったわ。そういう骨董趣味のすばらしさを大々的にあおりたてて。フランソワ・クルーエ(一五一〇頃~七ニ 十六世紀フランスの肖像画家)の描いたメアリー・スチュアートの肖像画を見せて、スチュアート朝の初代ダンディー子爵ジョン・グラハムが使った寝室に案内して、バラ島のマクニール家の六人が休戦中に宴会広場で殺されたときの血痕と伝えられているしみも見学してもらった。生きたまま埋められたラヴァト伯フレイザー家の三人の骸骨が、六十年前に掘り出された地下室の穴も。(後略)」


不吉なことが起きるときに必ず現れるという「黒い犬」などはまさにこの舞台だからこそ映える設定だろう。イングランドに制圧されたスコットランドの歴史なども充分盛り込まれており、意外な犯人という展開でも満点の面白さ。

今日聞いた音楽

Another Opus

Another Opus


レム・ウインチェスター1928年3月、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアの生まれ。50年代末から60年代初めてかけて活躍したヴァイブ奏者。
警官からプロのミュージシャンになったという経歴を持つ。音も素晴らしいがジャケットも秀逸。

サリンジャーを読み直しています

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」を読了。兄シーモアの結婚式に出席するためにバディは軍隊から休みをもらってニューヨークへ帰ってくる。しかし肝心の式に兄は現れず、花嫁は泣きながら退出し、バディは成り行きで花嫁の関係の出席者とともにタクシーに乗り込みます。タクシーの中では介添役の夫人がシーモアの悪口を言い始めます。介添夫人はバディがシーモアの弟であることも知っており、バディは彼女の言葉を思わず否定してしまう一幕も。そんなとき、タクシーはパレードにぶつかって動かなくなり、彼らは車を降りて喫茶店にはいろうとします。しかし喫茶店は閉まっており、バディはふと自分たちのアパートに彼らを誘う。そこで彼はシーモアの日記を見つけその断片が紹介されます。バディは思わず飲めないアルコールを口にし、介添夫人たちになんとか飲み物をこさえます。花嫁の家と連絡がとれた介添夫人たちはアパートを出て行きます。

ストーリーにあらわすとこれだけの話なんだけど『ナイン・ストーリーズ』の「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺する男性がシーモアということを知っている読者はなかなか複雑な感情をあちこちに飛ばしながら読み進むことになります。出てくる人物の容姿、姿形までも容易に想像することができ、小さな耳の悪い老人とバディのやりとりにほっとさせられもします。そしていつものようにサリンジャーの作品に出てくる女の子の愛らしさときたら。

グラース兄弟の一人、ブーブーがバディに書いた手紙でフラニーを記述したのが以下の文です。

フラニーといえば、先週のあの子の放送聞いた? 四つの時分、誰もうちにいないときにはいつも、アパートの部屋の中を飛び回っていたという話を、詳しく、とてもかわいらしくしゃべったのよ。今度のアナウンサーは グラントよりもダメ―言うなれば、昔のサリヴァンよりもダメね。きっとあの子が飛ぶことができると夢想しただけだろう、なんていうんだもの。あの子は、あ くまでもそうじゃないってきかないの。それがまた天使みたいなのよ。飛べたことはちゃんと分ってる、だって降りてくると、いつも手の指に電燈の球に触った 埃がついてたんだもの、ですって。

 



天使ってやっぱりいるんだよ

歌うダイアモンド

『歌うダイアモンド マクロイ傑作選』(創元推理文庫)読了。

 

歌うダイアモンド (マクロイ傑作選) (創元推理文庫)

歌うダイアモンド (マクロイ傑作選) (創元推理文庫)

 

 2003年に晶文社から発行され、入手が難しくなっていた、マクロイの自薦短篇集の再刊。その中からいくつか紹介しよう(ネタバレあるかも注意!)。トップに収録されている「東洋趣味」という作品、最近読んだことがあるぞと思ったら、そうそう、米澤穂信によるアンソロジー『世界堂書店』(文春文庫)にも収録されていた。怪奇色豊かなミステリーという点で、実にマクロイらしい作品といえるだろう。しかし、この作品で驚くのは、舞台が清朝支配下の北京で、古い山水の名画が貴重な役割を果たすなど、東洋に関する見識がとても深いことだ。王維という著名な画家が実在するのか、勉強不足なのでよくわからないのだが、仮にこれが架空の画家だとしても、中国美術に精通していなければこういう役割として使うことは出来なかっただろう。美術品がキーになる作品としても記憶しておきたいが、解説を読むと、ヘレン・マクロイは「中国をはじめとする東洋諸国の文芸、美術について並々ならぬ知識を具えていたことは、これまでに邦訳された長編を読んでも明らかだが(実際、マクロイは美術評論を執筆していた時期もある)」とあって、いくつか長編読んでるのに全然気付いていなかったことにちょっとだけ愕然とする(笑)。ともあれ、魅力溢れるエキゾチズムな世界観にひたりながら、しっかり謎解きも味わえる贅沢作だ。

「Q通り十番地」は、夫が寝静まるのを待って、そっと家を出て「抑えることの出来ない欲望」を埋めるために、怪しい街にはいっていく女性の話だが、「恋愛」に関することかと思ったら、実に意表をつく展開で、思わず人ごとではいられなくなる近未来のお話。

「ところかわれば」もジャンルとしてはミステリではなくSF。途中まで、地球人だと思っていた主人公たちが実は火星人で、中盤でそのことが明かされるところでまず感心させられる。火星人は地球に赴き、大いに歓待される。地球人と火星人は見た目も瓜二つで、すぐにでも良好なコミュニケーションが取れそうだったのに、根本的な部分がまったく違っていることがわかる。よくこんなこと考えつくよなぁとその想像力に脱帽してしまう。ちょっとした皮肉も効かせていてさすがだ。途中、火星人が地球人に地球の言葉で心を込めて挨拶するんだけど、これが「よお、ベイビー、調子はどうだい」だったり、「おっす!」だったりして、そのあとに「この挨拶もまずかったようだ」ってさらっと書いてあって爆笑してしまう。ヘレン・マクロイってこんなユーモアたっぷりの作品も書けるのね。

「鏡もて見るごとく」は長編『暗い鏡の中に』の原型になった短編で、これと「歌うダイアモンド」には、精神分析医のベイジル・ウィリング博士が登場する。「歌うダイアモンド」は、ダイヤの九の札の目のような、平たい菱型の物体が時速1500マイルでV字型の編隊を組んで飛んでいるのがアメリカ各地で目撃される、という不可思議な現象で幕を開ける。数字や早さはまちまちだが、みな、物体の形と、飛び去る時の音は共通している。「この件は、つまるところ、SFか、もしくはE・フィリップス・オッペンハイムばりの国際陰謀ミステリーってことですか?」と、登場人物の台詞にある通りの謎が本格ミステリとして結末を迎えるのに、感嘆してしまう。

 本作にはまえがきがついており、ブレット・ハリディが書いている。ヘレン・マクロイとハリディといえばおしどり夫婦として有名(この短篇集が刊行された時には離婚していたそうだが)。ハリディは「風のない場所」について「最後に4つのパラグラフを読んだ時の、喉が締め付けられるような思いを、私は決して忘れることができないだろう。私はただ、みなさんがその同じ四つのパラグラフを読み終え、この本を閉じたあとで、同じような思いを感じていることを願うだけである」と書いている。さすが、作家、うまく表現するよね。勿論、私も、この四つのパラグラフに深く深く吸い込まれてしまった。

 

そして医師も死す

D・M・ディヴァインのデビュー二作目『そして医師も死す』読了。

 

そして医師も死す (創元推理文庫)

そして医師も死す (創元推理文庫)

 

D・M・ディヴァインの作品は、ミステリボックスから出た数冊を始め、翻訳されたものは、全て読んでいる。ジャンルとしては本格推理で、犯人の意外性などミステリとしての面白さはいうまでもないけど、人間描写が丁寧で、どの登場人物たちにも息を吹き込み、ロマンスの要素もあり、普通の小説としての面白さもあるところが、ディヴァインの最大の特徴だろう。

大概は、大きな挫折を追った主人公が、事件に巻き込まれ、過去に恋愛関係だった女性と再会し、心揺らしながら、人生に打ち勝っていくというパターンが多い(ような気がする)が、本作の主人公、医師のアラン・ターナーは他のどの作品よりもちょっと短気でおっちょこちょいのところがあるように思う。尤も、ユーモア小説的な要素はまったくないんだけど。それにしても今回は一癖も二癖もあるいやなやつがいっぱい出てきて、結構私も読んでいて主人公以上に怒りっぽくなっていた気がする。ただ、彼らにしてみたら、まったく忠告を聞かず、自分が納得するまで動き回る主人公の行動の方がいらいらの対象であろう。ミステリの主人公ほど人の意見を聞かない種類の人間はいないかもしれない。

『シェーン偽札を追う』(HPP765)を読む

原題は「Counterfeit Wife」。1947年の作品。

マイアミからニューオリーンズ行きの深夜便に乗る直前、シェーンのもとに一人の男が現れ、切羽詰まった調子でどうしても今夜中にたって明日の朝にはニューオリーンズに到着しなくてはならないのでチケットを譲ってくれという。既に手荷物を預けてしまったというシェーンに男は自分のバッグを渡し、ポータに鞄を取り違えたとこちらの鞄を渡して持ってきてもらえばよい、と言い、シェーンの手に二枚の百ドル札を握らせる。鞄を取り戻したシェーンは男に搭乗券を譲ってやる。航空ターミナルビルに戻ると大柄の金髪女がカウンターで夫が最終便に乗ったかどうかしつこく問いただしていた。女に本当のことを告げるべきかどうかと考えたシェーンは女が運転する車を尾行して、一軒のバーにはいる。そこで男から渡された百ドル札で支払おうとしたところ、その札をどこで手に入れた!?と店主はピストルを突きつけた。

という実に魅力的な出だしでぐいぐい読ませる。今回もシェーンは全裸にされて監禁されたり、傷だらけ。誘拐犯たちに深く関わりすぎて、警察の目をごまかすために嘘をつきまくり、悠然ととぼける様子がユーモラスだ。信頼できる刑事と新聞記者に巧みに真実を少しずつ漏らしながら、事件の真相に迫っていくのが見もの。

今回はアパートメント・ホテルを一度引き払ったという経緯もあるので、自宅での料理シーンはなし。ホテルからニブロック歩いてレストランにはいり朝食を食べている。ベーコン添えのかきたまごを平らげ、コーヒーを三杯も飲んでいる。

探偵コーヒーを飲む

ブレット・ハリディ『死の配当』(HPP658)読了。1939年に発表された本書はマイアミの赤毛探偵マイケル・シェーンものの第一作。私立探偵マイケル・シェーンのアパートに富豪令嬢フィリス・ブライトンが訪ねてくる。母の再婚相手が脳卒中で倒れ、静養のためにマイアミに来たのだという。まもなくニューヨークに残っていた母が会いにくる、その母を自分が殺すかもしれないから監視してくれという奇妙な依頼であった。彼女を返したあと、フィリス・ブライトンの主治医と名乗る男がやってくる。フィリスが母親を殺してしまうかもしれないから、そのようなことがないように見はってくれと男は言う。シェーンはブライトン家に出かけるが、既に母親は刺殺されていた。そこには血まみれのガウンを来た娘が立っていた。

なかなかにショッキングな出だしであるが、驚くべきなのは、シェーンがさっさと証拠を隠滅してしまうことだ。彼が犯人でないと直感すれば、依頼主のために不利な証拠を現場から持ちだしてしまう。ここではガウンと凶器のナイフを。その後起こったある人物の自殺の現場では遺書を読んでから部屋の暖炉で燃やしてしまう。ここまでする探偵はあまり記憶にない。

ひどい暴力を受けたシェーンは全編にわたって痛々しい体で、よろめきながら、気力で事件を解決する。もう本当にボロボロの傷だらけの探偵だ。

シェーンはホテル住まいで、クロークの受付に頻繁に物事を頼んだり、支持を出している。探偵事務所というものは持たず、彼の部屋で依頼主の話を聞く。文中ではアパート、ホテル、アパートメント・ホテル、というようにいろんな表記をされているが、要は、調理場のついた長期滞在者用ホテルなのだろう。ホテル側の応対を観る限り安アパートというよりはちゃんとしたホテルという印象。

面白いのはシェーンを家庭的な男と表現していることだ。依頼人の娘に朝食をつくってやるところではパンをオーブンに入れ、ソーセージをフライパンで炒め、片側が焼けたらそれらをひっくり返して、珈琲の準備をする。

粉末コーヒーを茶匙に七杯はかって、サイフォンに入れた。

さらにその間に持ち帰った証拠のナイフを水洗いして他の包丁とともに仕舞い、ガウンの血の洗い流しまでしている。

二枚の皿にソーセージを分けて盛り、棚から気の食器盆をおろして、それにカップやソーサー、銀のフォーク、ナイフと一緒に乗せた。そのほか、コンデンス・ミルクの小さな罐に二つの穴をあけ、砂糖入れと並べて置く。最後にトーストと沸き立っているサイフォンを両側に載せて、釣り合いをとると、その朝食を満載したトレイを、右手の掌で支え、レストランのウェイターよろしく台所を出た。

また、彼の留守中に部屋に入り込んでいた刑事たちを前にして、買ってきた食材(薄く切った肉、チーズ、ロールパン、果物など)でサンドイッチを作り、一人で食べている。

コーヒーとともに、コニャックをはじめ、酒も飲んでいるが、このあたりは寧ろハードボイルド探偵としては普通だろう。後半は、体がぼろぼろなので、主にホテルに食事を注文して部屋に運ばせている。こういう点でもホテルは便利だ。

事件の展開としては、ラファエロの絵画がからんでくる。これで一儲けしようという有象無象が入り乱れ、高価な絵画を持ち込むために、贋作作家のサインを本物のサインの上に重ねて書くというテクニックが紹介されている。ミステリーとしても活劇としても面白い良作。

本日のBGM

No Room for Squares

No Room for Squares

 

 

 

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江坂の天牛書店に古本を売りに行く。ここは自分の知る限りでは一番高く買ってくれる古本屋さん。買い取ってもらったあとに一冊購入。マイケル・シェーンシリーズのペーパーバック。1958年発行の本作は、作者名はブレット・ハリディになっているものの、別の作家がハリディ名義で書いた作品らしい。ハリディ自身は1958年には作家活動の第一線から退いたらしく、人気のあるシリーズを続けたいために出版社がそのような方針をとったのだろうか。そのあたりの版権とかどうなっていたのだろうと、気になるが、カバーイラストは最近画集が発行されて話題のロバート・マクジニス。

 

無月物語

久生十蘭の『無月物語』(教養文庫)から「湖畔」と「無月物語」を読む。

北村薫は『ミステリは万華鏡』(角川文庫)の中で「湖畔」を取り上げている。主人公が、死んだはずの妻に会い、狂喜して林の奥の小屋で、愛の生活に入るという展開について、「問題なのは、それが現実に起こったことなのか、主人公の夢想なのか、ということである。これは問題なく後者だろう」といい、その根拠を上げている。そして、文章の一部を引用したあとに「ここで、《ああ、じゃあ生きていたんだ》と読む人がいるらしいのである。以下、延々と続くのは、生きている陶との、現実の生活だと」と書いている。

実を言うと、私など、まさにそのように解釈した一人である。そんなふうに思ってしまうのは、やっぱりどこかでこのひどく不幸な人たちが救われてほしいっていう思いがあるからなのだろう。しかし、北村氏は的確にこれが主人公の夢想であることを証明していく。高木を殺したのも主人公であろうと。しかし、冒頭に思いをはせると、彼は自分が犯した二度目の犯罪について「これは普通に秩序罪と言われるもので」と独白しているので、やはり高木を殺してはいないのではないか、と再び、「実は生きていた」説に傾いてしまう。勿論、高木は夢想に囚われているのでそのように記しているのかもしれないが。

しかし、続いて表題作の「無月物語」を読むと、私のこのような考えが「甘い」としか思えなくなる。これは恐ろしい、実に救いのない、冷酷な、氷よりも冷え冷えとした、これ以上の不幸はない、震撼する物語である。ここまで無情な小説を私は読んだことがない。これを読んでしまうと、「湖畔」はやはりそんなロマンチックな愛の物語ではないのだ、という結論にいたってしまう。

それにしても、これほど残酷な物語なのに、嫌悪感が襲ってこないのは何故なのか。物語が、一種の地獄図のようにある種の「美」へと昇華していると解釈して良いのだろうか!?

 

本日の名盤

 Gerrry Mulligan 「Night lights」

Night Lights

Night Lights

 

ジェリー・マリガンGerry Mulligan、本名Gerald Joseph Mulligan)は、1927年ニューヨーク生まれの作曲家、編曲家、バリトン・サックス奏者、クラリネット奏者、ピアニスト。
ウェスト・コーストジャズの基を作った人としても知られる。1963年録音のアルバム「Night Lights」は昔、ある喫茶店でかけてもらったことがあり、その時はミュージシャンの名前も曲のタイトルも知らなかった。ただ、素晴らしいジャケットと、一曲目の静謐なピアノの音に魅惑されたのを記憶している。ピアノはジェリー・マリガン自身が弾いている。
四曲目の「Prelude In E Minor」は、フレデリック・ショパンの「Prelude in E minor Op. 28 No. 4 」をジャズアレンジしたもの。バリトン・サックスが醸し出す暗~い低音にしびれる一曲。
参加メンバーはジェリー・マリガン(bs, p, cl)/アート・ファーマー(tp, f.hr)/ボブ・ブルックマイヤー(tb)/ジム・ホール(g)/ビル・クロウ(b)/デイヴ・ベイリー(ds)

 

本日の名盤

「But Not For Me」アーマッド・ジャマル

 

But Not For Me

But Not For Me

 

 アーマッド・ジャマルは1950年代からシカゴを拠点にして活動したジャズ・ピアニスト。1957年の本作は彼のもっとも売れたアルバム。表題の「But Not for Me」はガーシュイン作曲。二曲目、「飾りのついた四輪馬車(The Surrey with the Fringe on Top)」はミュージカル「オクラホマ!」のナンバーで、リチャード・ロジャース&ハマースタイン二世コンビによる作品。 エキゾチックなナンバー、六曲目の「ポインシアナ(POINCIANA)」はナット・サイモンとBuddy Bernierによる1936年の作品。キューバフォークソングが基になっている。

 

本日の読了本

「シカゴ育ち」(スチュアード・ダイベック/柴田元幸訳 白水Uブックス

 

 1990年に発表されたダイベックの第二短篇集。シカゴ南部の移民系が多い貧しい土地に暮らす人々の生活を描いている。一作目の「ファーウェル」からぐっと心を掴まれる。極寒のミシガン湖の近くの小さなファーウェルという通りに住むロシア語のゼミの先生のところを僕が訪ねて行く短い短い物語。

そして彼はファーウェルに住んだ。さようなら(フェアウェル=本文ではルビ)と言っているような名前の通りに。

 ここでいきなりぐっと来てしまった。この一文になんと多くの感情が宿っているか。そしてこの作品集の中でも一、ニを争う傑作であろう二作目の「冬のショパン」。妊娠したせいでニューヨークの音楽学校から帰ってきたマーシーが弾くピアノ曲がいつも階下に住む僕たちに聞こえてくる。僕達というのは主人公である僕と、その祖父のこと。生涯を放浪して生きてきたジャ=ジャは、いつもバケツにお湯を入れ足をひたしている。二人のもとに音楽が響いてくる。

ピアノの音が、天井を伝って重く響いてきた。耳からきこえるというより、体で感じられる音。特に低音はそうだった。時たま、和音が打ち鳴らされたりすると、引き出しにしまったナイフやフォークががしゃんと鳴り、コップがぶーんと唸った。

 マーシーが弾いているのはショパン。ジャ=ジャは僕にショパンを解説する。

「あの娘はワルツを一つひとつ弾き進んでおる」密談でもするみたいないつもの低いしわがれ声でジャ=ジャは言った。「まだ若いのに、ショパンの秘密を知っているよ-ワルツというのはだな、人間の心について、賛美歌なんかよりずっと多くを語れるんだ」

ある停電の夜、いつもよりも激しいマーシーの演奏を聞きながら僕はレンジの火のゆらめく部屋でスペリングの練習を続ける。

僕の手元でテーブルが揺れた。でも文字は完璧な形をなしていった。僕は新しい言葉を綴った。それはいままで聞いたこともない言葉だったが、書いたとたんにその意味は明らかになった。まるでそれらが違う言葉に属す言葉であって、その言葉において言葉は音楽と同じく音によって理解されるかのように。

ここでは見事なアンサンブルが起こっているのだ。ピアノとスペリングの。素晴らしい演奏ではないか。「ファーウェル」にも先生の家の近くに来た時に音楽が聞こえているし、「荒廃地域」でも主人公の少年たちはバンドを作って音楽をやっている。スクリーミン・ジェイ・ホーキンズに影響を受けてブルースシャウトを競い合う。

時たま汽車がすごいスピードで走りすぎていったが、頭上で響くそのびゅうんという音も音楽の一部みたいに思えた。

 ガード下の向こうに黒人の少年たちがやってきて見事なハーモニーを聞かせ、僕たちはそれに聴き惚れたりする。最後まで音楽をやっていたディージョは45回転のレコードまで出してしまう。そして、酒場を一軒一軒回ってジュークボックスに入れてもらう。

このように音楽が活き活きと作品に息づいていて、音は聞こえないのに、すっかり音楽に浸っている気分になってページをめくっている。何か一枚のアルバムを聴いたように。そして聴き終わった時には少年たちは成長して町を出てしまっており、音のない世界に戻ったようななにかとても静かな寂寥感を味わいながら、本を持って放心している。そんな感じ。

一方、連作「夜鷹」の中の一編「時間つぶし」では主人公は時間つぶしに美術館をぶらつく。そのため、いくつかの美術作品が出てくる。ゴッホの『アルルの寝室』、ドガの踊り子、「『グランド・ジャット島』の川べりに遊ぶ群衆の一員なのだ」というのは勿論、ジョルジュ・スーラの『グランンド・ジャット島の日曜日の午後』を指しているだろう。モネの『サン=ラザード駅』『サン・タドレスのテラス』『プールヴィルの海の影』。そして最後を締めくくるのはエドワード・ホッパーの『夜ふかしをする人々(ナイト・ホークス)』。まさに「夜鷹」である。

このあとにつづく連作の一編「不眠症」は、ホッパーの絵を素材に、そこから自由にイメージをふくらませてものであると、解説に書かれている。

聴覚に、視覚に、実に豊富なイメージを味わえ、心にいつまでも響き続ける傑作短篇集だ。

本日の食

京都北白川「MUNIAN」のトリュフ。ホワイトチョコレートに抹茶とほうじ茶と甘緑茶をそれぞれ加えた絶妙な食感の逸品。美味しい~~!

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