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毎日散歩

本と映画と音楽と、ときどき珈琲

2016年に映画館で観た映画

あいつと私、アイリス・アプフェル! 94歳のニューヨーカー、青空娘、あした晴れるか、アスファルト、アズミハルコは行方不明、あの頃エッフェル塔の下で、アメリカン・スリープ・オーバー、嵐を呼ぶ男(1966)、暗殺の森、イエスタディ、怒り、愛しき人生の作り方、イット・フォローズ、犬を連れた女、イレブン・ミニッツ、オデッセイ、海辺のポリーヌ、映画よ、さようなら、エクス・マキナエージェント・ウルトラ、エブリバディ・ウオンツ・サム!!、おーい、大石、王将、男と女、オーバー・フェンス溺れるナイフ家族会議勝手にしやがれ、硝子のジョニー 野獣のように見えて、ガール・オン・ザ・トレイン君の名はキャロル、教授のおかしな妄想殺人、恐怖分子、恐怖の回り道、グッバイ・サマー、クリーピー 偽りの隣人、クリムゾン・ピーク、グレイト・フラマリオン、クーパー家の晩餐会、結婚相談、建築学概論、ケンとカズ、高慢と偏見とゾンビ聲の形、国境事件、ゴーストバスターズ、湖中の女、コメット、これが私の人生設計、コンカッション、最後の切札、ザ・ウォークザ・ギフト、さざなみ、聖の青春、ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK The Touring Years、山河ノスタルジアジェイソン・ボーン、シェーン、写真家ソール・ライター、ジャック・リーチャー NEVER GO BACKショック集団、シング・ストリート 未来へのうた、シン・ゴジラ、人生は小説よりも奇なり、深夜の歌声、スーサイド・スクワッド洲崎パラダイス 赤信号ズートピアスティーブ・ジョブズ、スポットライト 世紀のスクープ、スラッカー、世紀の光、聖杯たちの騎士、世界で一番キライなあなたに、セトウツミ、ソーセージ・パーティー、ダゲレオタイプの女、ツィゴイネルワイゼンちはやふる上の句、ちはやふる下の句、チャイナ・ゲイト、ディーパンの闘い手紙は憶えているデッドプール、でんげい、東京おにぎり娘、東京の孤独、東京マダムと大阪夫人、DOPE ドープ!!、友だちの恋人、トランボ ハリウッドに最も嫌われた男、ドリーム ホーム 99%を操る男たち、永い言い訳、流れる、何者、憎いあんちくしょう、ニュースの真相、ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります、人間の値打ち、暖簾、ハドソン川の奇跡、バック・トゥー・ザ・フューチャーPART2、裸のキッス、裸足の季節パディントン、ハートビート、花に嵐、母の残像、バンクシー・ダズ・ニューヨーク、ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気、光の墓、ヒップスター、FAKE、ひと夏のファンタジア、ビッグ・ヒート/復讐は俺にまかせろ、ヒッチコック/トリュフォーピンクとグレー、ファンタスティック・ビースト、フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク、ふきげんな過去、淵に立つ、ブリッジ・オブ・スパイブルックリン、ブルーに生まれついて、ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期 、風櫃の少年、ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ、ぼくのおじさん、ぼくは明日、昨日のきみとデートするボーダーライン、香港、華麗なるオフィス・ライフ、マイ・ベスト・フレンド、マネー・ショート 華麗なる大逆転、満月の夜マンハントミスターダイナマイト ファンクの帝王ジェームス・ブラウン緑の光線、ミルドレッド・ピアース、胸騒ぎのシチリア、めし、メニルモンタン 2つの秋と3つの冬、もしも建物が話せたら、やさしい女山の音、山村テレビ氏、ヤング・アダルト・ニューヨーク、郵便配達は二度ベルを鳴らす(1946)、誘惑、ラスト・タンゴリップヴァンウィンクルの花嫁、リリーのすべてレジェンド 狂気の美学、レネットとミラベル/四つの冒険、ロシュフォールの恋人たち、ロブスター、若き詩人、私たちが飛べる日、私の少女時代 OUR TIMES (50音順 )

デヴィッド・ロバート・ミッチェルの世界

映画

デビッド・ロバート・ミッチェルの2010年の作品『アメリカン・スリープ・オーバー』は、デトロイト郊外の町の公営プールのシーンから始まる。水着姿の短髪の娘がプールサイドを歩き、キャンデーをなめている娘のとなりにすわる。二人ともまだあどけなさを残している。短髪の娘が尋ねる。「どんな夏だった?」。キャンディーの娘が応える。「去年と同じよ」。短髪の娘はプールの監視員の青年が気になっている。

夏の終わり、新学期(新学年)が始まるのは間近。どこかやり残したような、物足りないような、倦怠感に似た空気が流れている。

スーパーでカートを押す男女がすれ違い、恋が芽生えるかと思わせるが、テンポの速いラブコメのようにはいかず、少女があっさり、店を出て行ってしまい、少年は記憶だけをたよりに彼女をずっとさがすはめに。また、ハイスクールではモテモテだったのに、大学に進学してなんだか思うようにいかなくなった男が、母校の掲示板にプロムのときの自分の写真を発見している。彼を憧れのまなざしで見つめている双子がそこには写っている。

その日は新学年を目前にして、最後の夏休みを楽しむためのお泊り会が各所で行われている。少女たちは枕を持って、友達の家に行き、少年たちはホラー映画の鑑賞会を行い、大学生はその双子たちが進学する大学で行われている新入生のお泊り会へ出かけていく。映画は彼らの一夜をじっくりと描いていく。

冒頭の少女たちはお泊り会を抜け出して、プールの監視員の青年たちのパーティーに合流する。互いにはにかみながら、「ハイ、プールガール」「ハイ、プールボーイ」と声を掛け合うのがいい。この少し年上の青年が短髪の娘と交わす言葉はこの映画のキーともいうべきものだろう。

「大人へと急ぐと二度と取り返せない」

『アメリカン・スリープ・オーバー』はディヴィッド・ロバート・ミッチェル監督からの若い世代へのメッセージが込められている。「どうしてそんなに急いで大人になろうとするの?」という問いかけとともに、子ども時代のかけがえのない時期に、当人たちがその重要性に気付いてないことへの憂いも秘められているだろう。人は長い時代にわたってそれを繰り返してきたのだ。失ってしまった少年少女時代への羨望の眼差しとそのはかなさが画面に深く刻まれている。

この『アメリカン・スリープ・オーバー』を観ると、ミッチェル監督の最新作『イット・フォローズ』の観方も変わってくるだろう。『イット・フォローズ』は、ワンシーンワンカットの冒頭の長回しから衝撃的なホラー映画だが、明らかに『アメリカン・スリープ・オーバー』と地続きの青春映画なのだ。

舞台がどちらもデトロイト郊外、プールが重要なシーンに使われる(青春映画には夜間のプールは重要な場所だ)、高校の名前など共通点も多い。

セックスすることによって感染させられた者に得体の知れないもの(イット)がひたすら追ってくるというシチュエーションは非常に恐ろしく、大人の恋に憧れた少女が、好きな男性と結ばれた結果がこれ、というのはあまりにも酷である。まるで早く大人になることを急いだ罰のようにも見える。

彼女の妹や友人たちが懸命に彼女を救おうとするのが救いであり、彼らの奮闘ぶりが胸を打つ。プールで「イット」と対決をするため、彼らは車を走らせる。幼いころ大人たちに越えてはならないと言われていた境界線、都市と郊外の境界線実態が窓のむこうを通り過ぎていく。その風景の存在はまさに子供時代の終焉を意味しているだろう。

ラストシーンで、幼馴染の少年少女が手をつないで不安げに歩道を歩いている。その姿のなんと愛らしいことか。なんと素敵なカップルなのか。理想的なティーンエイジャーのカップルのように見える。それは一種のアイロニーなのか、それとも、厳しい社会に船出していく大人として負けるなというメッセージが込められているのか、はたまたこちらの深読みにすぎないのか。ただ、私は二人の美しさに息をのんだ。それだけは確かだ。

オーバー・フェンス

映画

山下敦弘の『オーバー・フェンス』は喫煙室の窓から外の廊下を映した場面から始まる。休み時間らしく大勢の人間が窓の外を歩いている。そこに声がかぶさり、穏やかな口調のオダギリジョーの声が響いてくる。画面はすぐに切り替わって喫煙室の中の男たちがナンパの話などで盛りがっている様子が描かれる。オダギリジョーはいたってにこやかに周りと接している。しかし、話が進むに連れ、この主人公は心に傷を負った人間であることがわかってくる。深く、深く傷ついている。黒沢清の「アカルイミライ」でちょっとしたことですぐにキレる青年を演じていたことが頭にうかび、いつか彼が感情を爆発させるのではないかと少々ハラハラしてみていたのだが(佐藤泰志の原作は未読)、ここでの彼は上辺はいたって平穏であり、笑みをたやさない。

しかしである、そんな彼が他人(親しい女性?)の心を「壊す男」なのである。おそらくそれは当人自身、あまり気づいてなくて、傷つけてしまったという事実は受け止めても、全てを認めてしまうことができないでいる。俺だけが悪いのかと彼自身大きく傷ついている。

一方、蒼井優が演じる女性は、オダギリにひかれながらも、かつて自分を傷つけてきた人たちと彼が同種類であることをすぐに見抜き逆上する。それは非常に激しい振る舞いなので、蒼井優のキャラクターはちょめんどくさい変わった女、頭がいかれてる女、「壊れた女」と敬遠されがちかもしれない。しかし、彼女はただ愛情を感じて暮してみたいと願っているごく普通の女性なのではないか。

オダギリと蒼井がはじめて遭遇する場面がここで重要になってくる。「同伴してもらった」中年男性に彼女はしきりにかみついていて、「(家族に)愛情表現はしている?」と聞き、ダチョウの求愛表現を真似始めるのだ。そう、彼女は鳥の求愛行動を何度も舞ってみせる。踊りにはいっさい迷いがないように見える。蒼井優が舞うとなれば、岩井俊二の『花とアリス』で無心に踊り続けた姿が思い出されるが、本作でも舞う蒼井優は最高であり、その姿は輝いている。鳥のような愛情表現をなぜ人間はしないのか、なぜ、愛情を示さないのか、彼女の求愛ダンスにはそんな想いがしたためられているはずだ。

オダギリは別れた妻と久しぶりに会う。彼女は元夫に「仕事が好きだったのに」、「一緒にいても私のこといらないと思ってたでしょ」と語る。それはオダギリにとってはおもいがけない言葉だったに違いない。仕事(特に仕事が好きというわけではなかったらしい)に懸命で愛情表現を怠ったために、知らず知らずのうちに妻をぎりぎりのところまで追い込んでいたのだ。

インコなどを飼ったことがある人はわかると思うけれど、鳥というのはそれはそれは豊かな感情の持ち主で、喜びを全身で表してくる生き物だ。残念ながら人間はそのようにはできていない。だから伝わらなかったり、誤解されたりして理解しあえない。どうして鳥のように生きられないのだろうか、自分は鳥のように生きたい、蒼井優はそんなふうに考えて舞うのではないか。その舞の中でオダギリは徐々に変化していく。彼がキャバクラの店内で蒼井優を抱きしめるところは本当にぐっとくる名シーンだ。

そんな複雑な男と女の物語であると同時に本作は「お仕事」映画でもある。「職業訓練校」が舞台ということで、そこに通う人々は今現在、仕事にはついておらず、一時だけの猶予期間に置かれている。勿論、真剣に大工をめざしている人もいるだろう。しかし、喫煙室グループ(タバコを吸う、吸わないで訓練生は二グループに分かれている)は、とりあえず通ってはいるがまだ決め兼ねている人ばかりだ。松田翔太扮する男がオダギリに語り掛ける言葉がこの映画のキーワードだ。曰く、「食ってくのってめんどくさいことだと思いません?」。あたりまえのようにやらないといけないことがなんと大変なことか。仕事をして生活していくということがいかに困難なことか。ひいては生きていくことがいかにしんどいことか。オダギリは「自分は普通の人間で普通に結婚して仕事をしていくのだと思っていたのに」とつぶやいている。

ときどき、すっと、山のような丘のようなものが画面の片隅に見えそこをカモメが飛んでいくという無音の場面がインサートされる。色のない世界。それはまさに『海炭市叙景』(熊切和嘉監督)が描いた函館だ(『そこのみにて光り輝く』は未見)。撮影は佐藤泰志原作の前二作と同じ近藤龍人。しかし、私はオダギリの住むアパートの二階に通じる階段の奥にちらっと海が見えている光景を見て、ポール・トーマス・アンダーソンの『インヒアレント・ヴァイス』の冒頭に出てくる(そのあとにも出てくるのだが)光景を思い出したし、坂道と市電と海が見える光景は一瞬サンフランシスコを連想した。本作品の函館はさまざまな顔、いろんな色を持っていて実に魅力的である。

ゴーストバスターズ

映画

この映画は学園ものではないが、その背景に学園ドラマが見え隠れする。クリスティン・ウィグ演じるエリンとメリッサ・マッカーシー演じるアビーがどのような学生時代を過ごしてきたか、思わず想像してしまった人は多いのではないだろうか。心霊に興味のある女子生徒というだけで、学園ヒエラルキーの最下層に位置していたに違いない。もしかしたら『glee』みたいに、廊下ですれ違いざまにコーラーをぶっかけられていたかもしれない。二人の友情は確かだっただろうが、周りからはいじめられていただろう。そっとしてあげたらいいのにという種類の人間にむごたらしいNO!をつきつけてくるのがアメリカの学園生活であるらしいのは多くの映画で学んできた。

エリンは、そんな立場から抜け出すために、コロンビア大学で物理学博士として勤務しており、終身雇用の審査を控えているところ。ところがAMAZONで、昔アビーとともに執筆したゴースト研究本が販売されており、審査に差し障ると危惧したエリンは販売を取り下げてもらおうと、ヒギンズ理科大につとめているアビーのもとに出かけていく。

アビーはちょっと狂気じみた発明家ジリアン・ホルツマン(ケイト・マッキンノン)とともに今もゴースト研究をつづけており、彼女にとって今やエリンは裏切り者。しかし、この後一緒に出向いたオルドリッジ家でほんもののゴーストに出逢い3人は大興奮! そこで撮影した映像をYouTubeに挙げて話題になるも、大学側に見つかって首になってしまうエリン。YouTubeの映像のあとに、それをつきつけられて言い逃れもできないエリンというカットのつなぎが最高で笑ってしまう。監督のポール・フェイグはこれまで、お下劣な言葉を連発させるのが得意だったけれど、今回はR指定を逃れるためにずいぶん控えたようだ。下ネタがなくても十分面白いですぞ。

ポール・フェイグとクリスティン・ウィグとメリッサ・マッカーシーは『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』でもタッグを組んでおり、これがあまりにもあまりにもなブライズメイズだったので、本作では二人がかわいらしく見えてくる!

ところで、ゴーストに対して笑顔で「Hi!」って言ってる姿は、『マーズ・アタック』の火星人を迎えるアメリカ人の姿を思い出してしまった。友好的に迎えているのに相手は容赦なく攻撃してきてあわてふためくアメリカ人。それと同様のお人よしアメリカ人の姿にまたまたふきだしてしまった。

結局アビーも大学の研究にふさわしくないと追い出され、三人は超常現象の悩みを請け負う会社を立ち上げる。この展開、活動用の車に霊柩車ながらもキャデラックを調達してくるところなんかもオリジナル『ゴーストバスターズ』を忠実に再現している。

ゴーストの存在を信じない専門家ビル・マーレイが出てくるのも洒落ている。オリジナルで彼はどちらかといえば超常現象を利用してナンパするような詐欺師的なキャラだっただけに、ナイスな配役というところか。地下鉄につとめていたパティ(レスリー・ジョーンズ)、想像を絶するほどおバカな美男子(クリス・ヘムズワース)が仲間に加わる様子は学園のいけてない系文科系サークルに仲間が増えていくような面白さがある。

で、一連のゴースト騒ぎには、世を恨む男の存在があった。この男の学生時代もまさに目に見えるようではないか。この男が作った霊を呼び寄せる装置は、なんとエリンとアビーの共著であるゴースト本を参考にしたものだった。本に書き込まれた落書きなどがビジュアル的によい感じだが、彼はとことんこの本を読み込んだらしい。ある意味、彼女たちと彼は同類なのだ。おそらく似たような学生時代を送ったことだろう。しかし彼が狂気に走ってしまったのは、エリンにとってのアビー、アビーにとってのエリンのような存在がなく、孤独であったせいかもしれない。

ゴーストを退治しても、ゴーストの存在が人々をパニックにしてしまうという理由で市長に隠ぺいされてしまうなど、相変わらず世の中は彼女たちに厳しいのだが、ラストの大パニックでの活躍ぶりにはしびれてしまう。とりわけ、ホルツマンの二挺拳銃風アクションのカッコよさときたら! こりゃ誰もがうなるでしょ!!

それからあのシーン、ここから踊ればいいのにと思っていたら、エンディングできっちりやってくれて大満足。期待をはるかにうわまわる傑作でありました。

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』を観る

映画

1947年ロスアンゼルス郊外のトランボの家、入浴中のトランボのバストショットのあと、バスタブで仕事をしているトランボの姿が映しだされる。彼が叩く激しいタイプライターの音と、バックに流れるジャズがよいセッションとなって響いてきて、観る者のわくわく感を刺激する。

冷戦下、アメリカ国内の共産主義者に対する疑心暗鬼は、マッカーシーや、ニクソンらに政治的に巧みに利用され、一種の集団ヒステリーとなり、共産思想を持った人々を襲う。このあたりのことは、最近、ディヴィッド・ハルバースタムの『ザ・フィフィティーズ』を読んでいたので理解しやすかった。ハリウッドにもマッカーシーみたいなのがいたんだなぁ。女性のコラムニストなのだが、この嫌な女をヘレン・ミレンが実に巧みに演じている。

冒頭、トランボが脚本を担当した作品の撮影風景が出てくるが監督がサム・ウッド、主演がエドワード・G・ロビンソン。これはなんだろう? 三人がクレジットされている『緑のそよ風』とは別の作品のようだ。日本未公開作なのかな? しかし、サム・ウッドってこんながちがちの保守派だったんだね。

苦難の中、最後まで戦い続けた、トランボと家族の物語だ。父を尊敬し、影響を受け、公民権運動などにせいを出す長女にエル・ファニング。この人は売れっ子だなぁ。トランボの妻役はダイアン・レイン。いい女優さんになったなぁ。

それにしても『ローマの休日』の脚本に関して、こんな裏話があったとは思ってもみなかった。偽名で脚本を書き、アカデミー賞をとってしまうなんて、なんて痛快なんだ。低予算の娯楽映画を作り続けるキング兄弟が「アメリカの理想を守るための映画同盟」の脅しをあっさり(といってもフランク・キングを演じるジョン・グッドマンがバットを振り回して大暴れするわけだけれど)蹴る場面もスカっとする。金のためだけに映画を作っていたと言われている彼らだが、彼らも生粋の映画好きだったに違いない。B級映画というのはいつの世にも需要はあるのだ。彼らはターゲットを徹底的にそこにしぼっていた。

本作ではそんな映画が好きで好きでたまらない人々が圧力に屈しない姿が誇り高く、時にユーモアを交えて描き出される。

カーク・ダグラスオットー・プレミンジャーが颯爽と現れるところも良いなぁ。オットー・プレミンジャーがトランボの家にやってきたとき、トランボは肩にオカメインコをのせている。カーク・ダグラスからの贈り物だという。部屋の奥には負傷した鳥の治療を行っているケースがある。「俺ならブロイラーにするな」というジョークをプレミンジャーが言うが、いるんだよね、こういう人(笑)。ともあれ、本作は貴重なインコ映画としても記憶しておきたい。

時代が変わり、人々の思想も変わる。アメリカの50年代は一見、平安で穏やかな時代というイメージだが、多くの人々があるべき姿を押し付けられて恐々とした時期だったのだろう。その次代への反発として60年代後半にはカウンタカルチャーの時代がやってくる。しかし、そんなこと、10年前には誰も予想することはできない。ブラックリストに載せられ、仕事を奪われ、絶望し、なんの保証も光明も見えない中、それでも闘い続け、書き続け、ついに時代がトランボに追いつくのだ。なんという闘いだろう。ラストのメッセージがまた心を撃つ。映画はメッセージを終えたトランボの横顔で終わる。メッセージを終えてほっとしたような、様々な感情を背負っているであろうこの表情が最高なのだ。

チャールス・ブコウスキー『パルプ』

 

パルプ』(チャールズ・ブコウスキー / 訳:柴田元幸/ ちくま文庫)を読む。

ハードボイルドな私立探偵ものは数多く読んできたけれど、これほどいきあたりばったりな探偵はいなかった。ハードボイルド文脈を借りながら絶妙なユーモアで笑わせる。私立探偵ニック・ビレーンは事務所を威勢よく出て行くけれど、行き着く先は馬券場か酒場。酒場にいくたび、バーテンともめている始末。死神が出てくるかと思えば宇宙人まで出てきて(その登場シーンがいかにもチープなのだ:バリバリと大きな音がした。紫の光がパッときらめいてetc…)地球侵略を考えているので協力しろと言ってくる。なんなんだこれとたのしく読みながら、ふっと「要するに俺は死と宇宙にはさまれて座っているわけだ」というセンテンスが出てきて「なんだか深い!」と思わせもする。この探偵ではなにも解決できないだろう、最後は全て投げ出すのでは?と思っていたら、なんとなく、みんな解決していく(笑)。そして何より、この作品が好きなのは主人公がカナリアを大事にすることだな。「赤い雀」を探す中で、騙されてつかまされる赤く塗られたカナリア。ニック・ビレーンはまずこう思う。「こんなもの逃しちまうわけにもいかない。外に出たら飢え死にしちまう。飼うしかない」。これは小鳥を飼ったことのある人の思考だと思う。さらに、彼は身をはってカナリアを守るのである。いや、実に素晴らしい!

『人生は小説よりも奇なり』はニューヨーク版『東京物語』だ!

『人生は小説よりも奇なり』(Love Is Strange 2014年アメリカ映画 アイラ・サックス監督)

2011年ニューヨーク州同性婚が認められたために、長年連れ添ったベン(ジョン・リスゴー)とジョージ(アルフレッド・モリーナ)の熟年カップルは念願の挙式をあげる。親戚をはじめ多くの人の祝福を浴び、幸せいっぱいに見えた彼らだったが、頭の硬いカトリック系の学校からジョージは首を言い渡されてしまう。失業の上に、保険や年金などの問題が重なり、二人は同居していたアパートを離れなくてはならなくなり、別々に親族の家に居候することになってしまう。

開けているようで居て、実は保守的なアメリカ社会が垣間見えるのだが、彼らの近しい人々は、それでも彼らのことはとても理解しているように見え、本気で祝福していたのは確かだろう。だが、実際自分たちの生活に関わってこられるとなると話は別らしい。ベンが世話になることになった甥(?)夫婦には一人息子がいる。夫は映画関係の仕事、妻は作家。非常に理知的な家族で、それなりのレベルの生活をしているように見受けられるが、ニューヨークの住宅事情なのだろうか、ベンにあてがう余裕の部屋がない。三人だけできちきちの生活なのだ。ベンは息子と部屋をシェアする羽目になる。さらに、ベンは執筆中の作家につい自分のペースで話しかけてしまい、だんだんと迷惑がられていく。夫は仕事にかまけていて、妻の不満を理解しない。家族の不和まで招くことになる。一方の、ジョージが転がり込んだ親戚の家はといえば、毎晩パーティーが開かれ、彼はほったらかしの上に、パーティーが終わらなければ眠ることもできない。久しぶりに会えたとき、二人は涙の抱擁をする。これを見ていて私は「これって、まさにNY版『東京物語」ではないか」と心の中で叫んでしまった。小津の『東京物語』はご存知のように尾道から東京で暮らす子供たちのもとにやってきた老夫婦の数日間を描いたものである。迎えた子どもたちは自分たちの日々の生活で手一杯で、時間的にも経済的にも十分なもてなしを行えない。それをうしろめたく思うことすらなく、むしろわずらわしいといわんばかりに、両親を熱海にやってしまう。両親にとっては、子供たちが立派にやっているかと思えば、意外と小さな住まいでやっとの生活であることに軽く失望する。しかし、「わたしらのところはまだいいほうじゃよ」と語り合いながら、郷里に帰っていく。

東京もニューヨークも同じなのだ。ニューヨークの家族は老人の子供家族というわけではなく、立場的には原節子に近いのかもしれないが。ふいにやってくる死もニ作品を比べたくなる理由であろう。

生前、ベンと心のスレ違いがあったと感じる少年は、ベンの書きかけの絵をジョージに届けに行く(この絵がすごくよいのだ。これが未完成に終わったのが本当に残念。途中でも素晴らしい絵だけれど)。その帰り、アパートの階段で壁にもたれながら彼は静かに涙を流す。その長いシーンがとても心に染み入ってくる。やがてアパートを出た彼はかつてベンとの会話に出てきた少女と合流し、夕焼けで染まる街中をゆっくりとスケートボードで進んでいく。なんだかそれは『東京物語』の尾道のきらきらした風景を想いださせもする、静かで美しいシーンだ。